―わたし好みの新刊―     20134

『発電所のねむるまち』

  マイケル・モーパーゴ作 杉田七重訳 あかね書房

 海沿いにあるイギリスの小さな町の話。50年ぶりに故郷に帰り,今は怪物のよう

な建物の廃墟となった町を訪れる主人公マイケルの話。マイケルは楽しかった故郷

の人々や自然を思い起こしながら故郷への道を歩む。

 あるとき,悪ガキに自転車から突き落とされ怪我をしているぼくを、ペティグルー

さんがすてきな鉄道客車の家につれ帰って治療してくれた。その記憶が,ついこの

間のようによみがえる。

「ペティグルーさんに肩をだかれ、ふたりならんで歩いた。だまっているのに、な

んだか心地いい。それから道路をそれて、はるかさきに見える防波堤へつづく小道

に入った。空に向かってまっすぐのぼっていく煙が鉄道客車の煙突から出ているの

がわかる。…」

 防波堤のきわにはしゃれた鉄道客車の家が置かれていた。本がたくさんある整っ

た室内、昔の一等客室のような雰囲気であった。住人ペティグルーさんの幸せだっ

た日々のこと,ペティグルーさんにおそわったたくさんの楽しい思い出がつぎつぎ

とマイケルの頭の中をかけめぐる。

 そのような美しい自然の町に,ある日巨大な原子力発電所の建設話がもちこまれ

た。しかも、なんということか,建設場所はペティグルーさんの美しい家のある海

辺とのこと。賛成,反対が町中にうずまく。ペティグルーさんも必死に原発の怖さを

訴える。しかし、時の流れに抗しきれず、いつの日にかペティグルーさんの土地に

巨大な原子力発電所の建物が造られていった。

 そして,何十年か過ぎた今,マイケルが目にする建物は廃墟となってがんとして

動きそうにない大きな〈怪物〉だった。科学技術の粋を集めたという原発の愚かな

なれの果ての遺物が見える。

最後に訳者のことばがある。「失ったものを取り戻すことができなくても、失った

ものから学ぶことはできる」と。そして「そこからしか、人間はよりよい未来を築

けないのでしょう」と結んでいる。

                        201211月刊  1,200

 

『北限の稲作にいどむ』 

    川嶋康男著   農山漁村文化協会

北海道の寒冷地に稲作を根付かせた一農民中山久蔵の話である。

 今は北海道の各地でも稲作が行われ、他の品種に見劣りしないおいしい米

が北海道ブランドとして販売されるようになった。これには、さまざまな品

種改良の結果北海道の地でも稲作ができるようになった、というのが一般的

な見方ではないだろうか。しかし,最終的には近代の品種改良も役に立って

いるが,もともと,この北海道の寒冷地に稲を栽培できるようにしたのは,

大学の研究室でもなく農業試験場でもなく,一農民だった。

明治になる少し前の1853年,大坂河内生まれの久蔵は,仙台藩に仕え蝦夷

の地におもむいた。そして,開拓農民になる道を選び,千歳近く,島松と

いう地で原野の開拓を始めた。当時,開拓使が農学校に招いた学者が言う。

「寒冷積雪地は、稲作に向かない。日本人の食生活は小麦などを中心とし

た中味に変えるべきで、そのためには、大規模な畑作や酪農と言った農業

を勧めるべきだ」と。しかし,久蔵は米の飯を食べたい一心で北海道の地

でも米作りに取り組むことを決意する。すでに試みられていた道南での稲

作の例に学び,貴重な品種をもらい,水路を長くして水温をあげる方法を

とるなどして,島松での米作栽培に取り組んだ。いくつもの失敗を重ねた

末にやっと収穫にこぎつける。その成功が日本初の勧業博覧会で注目を浴

び,北海道の地でも稲作ができることが全国に知れ渡った。明治天皇も北

海道巡行の時に久蔵の稲作地を訪れた。久蔵の稲作成功の裏には,作業の

中味や水田の規模、収穫量などの克明な記録があった。久蔵の数量的な把

握が稲作成功のカギをにぎっていた。近くに入植者を募ったところ,広島

市からの一団がやってきた。その地は今も「北広島市」として栄えている。

札幌農学校の新渡戸稲造などがアメリカ式の大規模農業を奨励していたに

もかかわらず,駒場農学校では『改良 日本米作法』などを著して,北海

道での米作りを支援していたとはおもしろいとりあわせである。以来,北

海道の地にも稲作奨励の時代が始まった。

          201212月刊  1,300円(西村寿雄)

       

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