1.「科学読物」の類型化 2000,5 一般に、子どもや青少年向けに書かれた自然や科学に関する読み物、本、図鑑類など
を「科学読み物」という言葉で語られている。 しかし、科学読み物について研究、論議していく場合は、共通した科学読み物の概
念を持つ必要がある。その意味において、現在までに語られている科学読み物論を整 理し、新たに類型化を試みた。 まず、戦後の科学読み物論から取り上げていく。初めに、初期の科学読物研究会の
中川宏は「科学読物は〈科学の本〉の周辺部分、裾野の部分をより広く含んでいる」 「内容によっては科学者の伝記、SF、フィクション、動物文学も含む」(1977 *1)として、 〈科学の本〉とその〈周辺の本〉とを区別している。 このあたりを加古里子は、「科学読物」の用語解説に「図書分類であつかう科学の本
にとどまらず、その周辺部分、裾野の部分を広く含んでいる本。科学者の伝記やSFの みならず、また文学の形をとっていても、自然に対する深い認識や問題の提起が含ま れていれば科学読物に入れる。昭和初期から多用されている児童科学書にかえて、 1960年代から使用されるようになった言葉。サイエンス・リーダーの訳と言われる。」 (1999 *2) とまとめている。さらに、中川宏は
「自然への鋭い洞察あるいは自然への正しい描写、あるいは自然や科学への幅
広い関心を育てるものであれば、すべて科学読物となりうる」(1981 *3) とも述べている。
一方、仮説実験授業を提唱した板倉聖宣と仮説実験授業を実践的に取り組んで
きた庄司和晃は、科学読み物について次のような明確な規定をしている。 まず、庄司和晃は
「科学読み物は、その内容のありかたや執筆姿勢からいって、二つに大別するこ
とができる。一つは〈自然〉を教えようとする面に主眼のおかれた読み物であり、 もう一つは〈科学〉を教えようとする面に力の注がれた読み物である。」として、 後者を「考えることのすばらしさや科学の方法のおもしろさを知らせようとする もの」とし、「前者をふまえつつも、科学とは何か、科学者とは何かをまっとうに
伝えようとするもの」(1968 *4) を科学読み物としている。
また、板倉聖宣は科学読物の〈科学〉という言葉について厳格な規定をしている。
「〈科学読物〉の科学を、〈近代科学〉と限定せずに、〈それぞれの時代に正統
的と見なされていた自然についての学問―自然学〉にまで含めることにして しまえば、上の二冊(『天地或問珍』『訓蒙天地弁』)は立派に日本最初の 〈科学読物〉ということになるだろう。しかし、わたしはそういう考えをとらな い。」(1982 *5) として、きっぱりと〈自然学〉に類する本は科学読み物とは認めていない。そして、
「仮説をもとにして実験観察をつみあげて法則理論の体系をつくりあげていくよう
な学問、それだけを科学と定義すべきだ」「科学読物の役割は、何もその時代時代 に正当とされていた自然についての知識を教えることではなく、そういう常識・権威 をものりこえて、仮説をたて実験をすすめようという生き方を育てあげようとするもの でなければならないと思うからだ。」(同 *5) とも言い切る。板倉聖宣の科学教育観にもとづいた「科学読物」も板倉聖宣自身か
ら多数出版されている。また、学校教育の場では仮説実験授業という形で彼の提 唱する〈科学〉の授業の有効性は数多く実証されている。 また、最近の講演で板倉聖宣は別の表現で科学読物を定義している。
「科学者という人間がいて初めて科学が成立します。ですから、科学読物というの
は人間の物語なのです。…」「科学読物というのは、とりあえずは科学者のすばら しさ、科学する人間、科学を作った人間のすばらしさがわかるように書いた本です。」 (1999 *6) として、人類が〈地球が丸い〉と認めてきた歴史、常識と真理は必ずしも同じない
ことを知る実験、社会の問題も実験で決まるという見方、そして、〈科学〉そのもの を知らせる実験、それらを科学読物としている。 板倉聖宣の言う科学読物を要約すると、〈科学〉(近代科学・近代科学観)そのも
のを教える読み物と、科学者の研究過程、研究行為などを含めた研究のドラマとま とめられる。 板倉聖宣による「科学読物」定義の特徴は、科学読み物から〈自然の本〉を除
外しているところにある。これは、あえて誤解の多い〈知識の本〉と〈科学の本〉の 混乱を避けるための意味も込めているとも受け取れる。 また、これらの論議とは別に、自然を通じて得られる自然体験やフィクションの世
界から自然感覚を習得できる本も、広い意味での「科学読み物」といわれている 面がある。特に入門期の科学絵本に類するものや、自然環境に関する読み物に この主張が強い。 化学物質による自然破壊に警鐘を発し続けたレイチェル・カーソンの『THE
SENCE OF WONDER』を訳した上遠恵子は、その訳書の中で、「美しいもの、 未知なるもの、神秘的なものに目を見張る感性〔センス・オブ・ワンダー〕を育むた めに、子どもと一緒に自然を探検し、発見の喜びに胸をときめかせる」(1996 *7) 本として、この本を推奨している。
フィクション、自然感覚も含むこれらの自然学入門の本も広い意味で科学読み物
に入れることもできる。板倉聖宣の言うきわめて人間的な本に近接する部分もある と思われる。 西郷竹彦は「知識絵本」というジャンルで「なによりも大事なことは、〈ものごと〉の
見方、考え方を育ててやることでなのです。」(1983 *8)として、良質な「知識絵本」 の有用性を説いている。 また、数々の絵本づくりを手がけている松井直は「一冊のすぐれた本は、人間 の内なる世界を変えてゆく力をもっている。」(1981 *9)として、特に幼児期における 「ものを識る絵本」「認識絵本」「動物絵本」の大切さ説いている。 以上、現在語られている科学読み物論を整理してみた。
注記 *1 中川宏 「子どもの本研究の領域と課題」(季刊「子どもの本棚」1977,8)
*2 加古里子「科学読物」 (加古里子著『絵本への道』福音館書店1999,5)
*3 中川宏 「科学読物への小論」(「子どもの本棚」34号 1981,4 )
*4 庄司和晃「仮説実験授業と科学読物の教育」(「学校図書館」1968年10号)
*5 板倉聖宣 「科学読物の先駆」 (『日本はじめての科学読物』国土社 1982,4)
*6 板倉聖宣 「科学読物と科学」(1999,11講演 「科学読物研究」0号収録)
*7 上遠恵子 『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著 新潮社1996,7)
*8 西郷竹彦 『読んであげたい絵本2 知識絵本』(明治図書 1983,3)
*9 松井直 『わたしの絵本論』(国土社 1981,1)
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今回、上にまとめてきた「科学読み物」を整理し共通理解しやす
くするために、以下の3つの要素から、「科学読み物」を類型化す
ることを試みた。
T 知識(自然・社会・技術等)、 U 科学、
V フィクション
もちろん、「科学読み物」の中には、これらの要素に単独に位置
するものもあるし、重なった要素に位置するものもある。
![]() なお、この図の解説とそれぞれの具体的な本の内容については次
回に解説したい。
2.「科学読物」と「科学み読物」
ここで、カガクヨミモノという言葉について提起したい。
現在広く一般に使われているカガヨミモノは「科学読み物」が多い。
これは、特に意識的に使われている言葉ではないが、子どもたちも
読める読み物や絵本も含む意味あいを込めて「読み物」が使われて
いると思う。今でこそ、写真本やマンガ本も見られるようになったが、
もとを正せば、本というのは言葉による伝達手段を使った読み物で
ある。読本を初めとする戦前の児童科学書は「読み物」そのもので
あった。したがって、今もカガクヨミモノを総称して言う場合は
「科学読み物」とした方が共通した概念に近くなる。
そこで、近代科学に限定した内容についてのカガクヨミモノは
「科学読物」もしくは「科学の本」としてはどうだろうか。
仮説実験授業関係の人達には「科学」というと、当然近代科学に
基づく内容を指すものとの共通理解がある。したがって、この「科
学読物研究」内では、カガクヨミモノを「科学読物」と書こうが
「科学読み物」と書こうが、混乱は起こらない。
しかし、教育界も含む一般には板倉聖宣の言う「科学」と「自然
学」の区別はまだまだ意識されていない。だからこそ、特に今の時
代だからこそ、「科学」の本と「自然」の本の違いをあえて主張し
ていくことは大切と思う。
そこで、カガクヨミモノという言葉の区別を、この会から発信し
ていきたいと思う。
カガクヨミモノを総称として使う場合は「科学読み物」、〈科学〉
の本の名称として使う場合は「科学読物」もしくは「科学の本」と
考えているが、どうだろうか。
みなさんの、議論にまちたい。
2000,5,8
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