社会的認識と仮説実験授業

                         板倉聖宣

 研究者が自分の見出したと考える法則がいかに正しいと,確信することが
できたとしても,それが他の科学者たちによって納得しうるような形で十分証
明されていなけれは,その研究は未だに不十分だといわなけれはならない。
たとえ,のちにすべての人々によってそれが正い,ということが明らかになった
としても,その社会の中で他の人々に十分納得のゆくように証明できなけれは,
科学としては不十分なのである。
 クラスの多くの児童・生徒たちに十分納得のゆくような形で証明されていない
法則や理論は,それらのクラスにとって科学であると主張することはできないの
である。科学的認識をすすめようとするものはだれでも,上述のようにして社会
的に認められた科学知識の成果を自由に利用することができるし,またそれま
で社会的に認められた知識の上に自分の成果をつみ重ねなけれはならない。
 ある事柄について研究しようとするとき,そのすべてを一人でやろうとするの
でなく,すでにそれについて研究した人々の論文をしらべたりその他の人々か
ら知恵をかりて研究するというやり方が科学の研究のすすめ方である。科学と
はいたずらに知恵をきそうことではなく社会的な知識をふやす働きだからである。
もし他の人々の研究の結果が自分の結果とちがっていれは,どちらが正しいか
問題を提起してそのことを明らかにするということも科学を社会的なものとするた
めに不可欠のことである。
 他人の研究を批判することをさけるのは科学にとって好ましいことではない。こ
れまでの理科教育ではともすると他人の知恵をかりることや,他人に知恵をかす
ことの重要性についての充分意識的な指導が行われなかったが,科学教育では
自分自ら新しいことに気づくような訓練にもまして,他人の知恵をかりることの訓
練の方をさらに重視しなくてはならない筈である。
 
 社会的に権威ある理論を容易に受け入れうるということとそれを理解しうるとい
うこととは,互いに密接な関係をもっているとはいえ,別個な事柄であって,科学
理論をうけ入れることを本気で表明しながら,明白にそれと矛盾した常識に支配さ
れる人も少なくないのである。しかも,科学のみならず,常識や迷信もまたそれぞれ
独特の社会的権威をもっているので,それらが相矛盾するときには社会的権威は
ほとんど意味を失い,自らその正しさを確認する努力をしなけれはならないのであ
る。
 じっさい,科学教育のとくに初期的投階においては,(従来あまり知られなかった
ことだが)科学上の理論と個人的な先入観や常識的見解とが相矛盾した内容をも
つことが少なくない。そのような場合には,科学上ですでに確立されている理論・法
則といえども可能なかぎり,生徒たちの先入観や常識と相並ぶ一つの仮説として導
入され,科学上の理論や法則が常識的な考え方よりもはるかに正確で有効なもの
であることを身をもって体験させるように指導しなければならないのである。
 このことは従来,あまり重要視されなかったことであって,従来の科学教育の失敗
がここに起因していることが少なくないと思われる。教育以前の生徒たちがそれと相
対立するような先入観や常識をもっていることを考慮せず,それとはっきりと対決す
るような形で科学上の理論や,法則を示すようにしなけれは,生徒たちの頭はそれ
らの常識と科学とを共存させて,生活用では従来の先入観を保持し,学校の試験用
には科学でおぼえた知識を用いるという使いわけをするようになる。その先入観と科
学との対立を明確に意識しないでそうすることも少なくないが,その対立を知っての
上でそうすることも少なくない。そのように使いわけなけれは頭が混乱してしまうから
である。
 しかも,そのような場合の先入観は自らのさまざまな体験に根ざすものであるから,
しばしば学校でのいくつかの実験を伴った科学の理論よりも真実性があると思われ
ることになって,科学はついに理解されないことになるのである。
 科学上の新しい理論・発見はしばしばそれまで社会的に広く認められていた科学や
常識や先入観を否定するものとして,それらの反対を覚悟の上で提出され,その反
対・疑問を克服するような明快な根拠によって支えられなけれはならないものである。
  
                   「科学的認識の成立」(「理科教室」1966,6より)

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