仮説実験授業における「実験」とは何か

                                板倉聖宣

 実験とは,自然認識を目標として,自然と自分とを統御して,自然に問
いかける意識的主体的な活動である。
 従来の科学教育においては「実験」というものの本質がまちがって考え
られ,そのため混乱をきたしていることが少なくないと思われるからであ
る。
 上の命題は一般に考えられているように.実験というものは単に実験装
置を動かして,自然現象を生起させるということではないということを云
おうとしたものである。いくら実験装置を動かしてみたところで,その行
為でもって目的意識的に自然に問いかけるという主体が確立されているの
でなけれはそれは実験とはいえないのである。チンパンジーや幼児が実験
装置を動かしてみても,それはかれらにとって実験とはいいえないという
ことは明らかであろうが,従来学校の理科室などで行われている「実験」
にも基本的にはこれと何ら変らない場合がきわめて多いことに注意すベき
である。
 教師実験でも児童(生徒)実験でも,多くの子どもたちは,何故そのよ
うな道具を使って,そのような「実験」をやるのか,その「実験」によっ
てどんな考えの真理を明らかにしようとしているのか一向に理解せずに,
「実験」を眺めたり,指示のままに手足を動かしているだけということが
多いのである。
 科学教育における実験を真にその名に値するものとするためには,それ
らの実験をすべての生徒にとって目的意識的なもの,自然にイエスかノー
かを問いかけるものとして明確に意識させなけれはならない。つまり実験
の前には必ず生徒の一人一人に予想(仮説)を立てさせて,それでもって
自然に問いかけるようにしなけれはならないのである。
 一人の人間がある概念のもつ意味や,それらの概念の問に成立する法則
・理論の内容が充分よく理解しえたということは,彼がそれらの概念や法
則を用いて,その領域内にある未知の現象を正しく予言できるようになる
ということである。
 科学上の理論や法則は比較的簡潔な言葉によって表現されているから,
その表現を覚え込んでしまうことは比較的容易なことである。しかし.そ
れらの理論や法則にはそれに関して行われた従来の諸研究のすべてが含蓄
されているのであって,多くの場合,その内容を理解することは容易なこと
ではない。
 したがって,科学教育では,具体的な事実についてその理論・法則がい
かなることを問題にし,いかなる予言能力をもつものであるかを知らせる
ことが必要になる。そこでわれわれの目標とする科学教育では,教育目標
とする内容について,予想・実験・予想・実験・‥と何度でもくりかえし,
ついにはすべての生徒がその概念と法則を用いて,実験の結果が正しく予想
できるようになるまで,問題をくりかえし与えなけれはならない。そうしな
けれは,少なくとも授業の中ですべての子供たちに目標とした概念や法則
を確実に身につけさせたとは言えないからである。

         「科学的認識の成立」(「理科教室」1966,6より)
      
          「仮説実験授業」へ