仮説実験授業と授業の科学化           


                                   西 村 寿 雄

 仮説実験授業について少しまとめてみた。
 初めて仮説実験授業を耳にされた人には, 「仮説実験授業ってそんなことをめざしてい
るのか」とおおよそのイメージを持ってもらえるのではないかと思う。
 人によって多少の重点の置き万の違いはあると思うが,私は次の四つの点を,仮説実験
授業のめざすものと思っている。
    T 科学の基本概念を教える。
    U 認識の論理を教える。
    U 「学ぶ」楽しさを教える。
    W 授業の科学化をめざす。
以上の項にそって述ぺてゆきたい.

 (ここでは,そのうちWについてのみ掲載する。他の内容については
 『授業科学研究』3巻仮説社刊に,掲載されています。)


             W 授業の科学化をめざす

 この「授業の科学化をめざす」は,わたしたち教師,教育界に対する過去に前例のない画期
的な提唱である。
 私自身仮説実験授業をやる前は,かなり長い間,世間でいう授業研究や教材研究という内
容に時間をかけていた。 授業研究と称して盛んにやったのは,教材の体系化をもとに,目標
の構造化教師発問の設定,児童発言の予測等を教案に表わすことであった。そして,授業の
経過を克明に記録し,授業の原則らしきものを抽出することを授業研究の科学化と称していた。
 しかし,これは今から思えば,子どもたちに実験(観察)させてその結果をいろいろと考察させ
る類と似ている。結果を導くまでに多種多様の努力はするが,出てきた結果を活用することは
ほとんど考えなかった。考えなかったと言うより実際に活用できる場がほとんどなかった。新し
い授業に入る前に授業記録を調ぺたりしたが,ほとんど,教材解釈とか実験のアイデアを参
考にする程度であった。つまり,お互いの経験,アイデアを参考にする程度の内容でしかなか
った。
 むしろ「授業」というのはその程度の参考にしかできず,実際に授業がうまくいくかどうかは,
その教師の力量にまかせられていた。実際,授業というのは,一人一人,その時その時全部
違うのであって,授業の法則化・定式化などあり得ない,授業とは芸術的創造活動であるとさ
え考えられていることが多い。
 もちろん,教育という仕事は,子どもと教師とのかかわりであって,偶然的,創造的要素の強
いことは事実である。しかし,授業研究と称して付属小学校等いくつかの学校で行なわれてい
る成果が,参考の程度にしか利用できない事実は何を示すだろうか。教育現場で行なわれて
いる大半の〈研究〉が科学とは縁遠い解釈主義的自己満足にすぎないということである。
 これでは教育はいつまでたっても進歩しない。権威や時の流れにゆれ動くのみである。
 一部,民間教育運動に没頭している人達のいることを知っている。その人たちはその人たち
なりの経験の成果を集約し,一定の原則を明らかにしながら独創的な教育内容を提示している。
そのことは,貧弱な官製教育内容に潤いを与えていることは事実である。

 しかし,それらの内容とて,よほどその研究団体に没入している人でない限り,部分的,断片
的にしか利用できない。中身がいくら良さそうでも,その成果の一般化がはかれていない。
 仮説実験授業の実践報告を聞くと,しばしば理科に全く弱い教職経験1〜2年の先生が,ほほ
を紅潮させながら報告しておられるのに接する。だれかに勧められて,たまたま授業書を使って
授業をしたところ,子ども達から思わぬ大歓迎を受け,先生自身びっくりしてしまった例も少なく
ない。
 仮説実験授業の研究会で印刷物として授業書化されたものは「どこでも,だれがやっても80〜
90%は成功する」と言われている。授業を受けた子ども達の90%が歓迎してくれることを成功
の基準としている。個別的要素の強い教育現場でこれだけの成功率を持っていることは,画期
的な現象である。
 先生の力量や子どもの特質を問わないで,仮説実験授業の授業書がこれだけの成功率を持
つということは,それだけ,授業書そのものが一般性を持っているといえる。わたしたちが,授
業研究の科学化という言葉を使うとしたら,このような場合をこそ言うべきではないか。なぜなら
〈科学〉という言葉は,最も信頼性のある原則を明かにする行為に対して使われるからである。
 仮説実験授業の授業書がきちんとした形式を備えているということは,様々な比較研究を可能
とする。授業書の中身の検討ができることはもちろん,地域差や男女差による子どもの反応の
若干の違いまである程度の推測が可能となる。
 こうして見てくると,仮説実験授業の授業書は,授業の科学化へ大きな方向を示している。先
に述べた「認識の論理」を生かしながら他の教科での授業書化も試みられている。実験で決着
をつける自然科学の領域ほど明解にいかなくても,かなりの成功率を保っている授業書もある。
 また,こうした授業の科学化は,そのまま日常の教育活動そのものへの転用が可能である。
 ゎたしが,子どもたちや仲間の先生と話す時は,話す側としていつも「認識の論理」を頭に描い
ている。少しでも問いかけ形式をとり入れながら,選択肢をはっきりさせ,リズムを考えながら話
すように心がけてしまう。 また,子どもたちもさっそく仮説実験授業の論法を取り入れて,しば
しば学級会なとで,選択肢を作って互いに意見を出し合っている光景が見られる。
 仮説実験授業の認識の論理は混沌とした教育現場を見通す力にもなる。〈こどものために…
子どもを大切にするにば…〉と称して,しばしば,形式的な議論が展開される中で,確実な科学
の論理を適用しながら,より確かなことと,あまり確かでないことの見きわめがつく。そして,時
には多数派に妥協しながら,問題の本質を見つめるという柔軟な対応の仕方も可能となる。

 以上のように仮説実験授業は,たんに理科教育の改革をめざすというより,教育,認識のありか
たまで含めた幅広い科学運動である。                       (1978,9,20)

   なお, 全文は 〈『授業科学研究』3巻 仮説社刊〉に収録されています。

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