教育の矛盾と仮説実験授業
                                   板倉聖宣
 
 授業におけるもっとも基本的な矛盾は, 〈自由と束縛〉〈教授と学習〉だというこ
とができる。生徒の自由,自発性をそこなわずに,かつ教師の積極的な指導の効
果を上げることが要請されるからである。
 しかし,多くの教育学説は,この矛盾を教育というものがさけて通ることが出来な
い基本的矛盾であると認めることをきらってきた。そこで,教師の指導性に基礎を
おく教育学説と,生徒の自発性に基礎を求めるものに分裂してきた。
 現実の教育の歴史は,この二つの考え方が交互に流行的に現れてきたものと見
ることができる。ある時代には生徒の自由研究の重要性が強調されるかと思うと
,こんどはそれが「自由放任」として非難されて,系統的な教材の積極的な提示の必
要が力説されるという調子である。
 
 科学教育においては,この矛盾はまた,主観と客観との矛盾として現れる。
 「科学は,客観的な事実・法則の発見を目指すものだから,実験をすると
  きには,主観的な判断を極力排除するように心を白紙にして行われな
  ければならない」
と言われるが、実験が人間の主体的な対象への働きかけによって,はじめて行われ
ることも,また明らかである。そこで
 「実験をするときには,あらかじめ,予想・仮説を持たなければならない」
ということが,指摘されるに至った。
 
 仮説実験授業は,科学の授業に現れるこのような矛盾を,科学的認識を成り立たせ
る基本的な矛盾と認め,その矛盾を生み出す認識の運動法則を授業の中に位置づけ
ることに成功した授業理論・教育理論である。そして,科学上のもっとも基礎的,一般的
な概念・法則の教育に活用されるものである。
 仮説実験授業は,「授業書」という一種の教科書兼指導案を中心に授業が展開される。
授業書に出ている問題について,実験の結果を予想させることから授業が出発するの
である。
 問題には,ふつう選択肢が用意されている。生徒がその予想を選ぶ中で,その問題−
実験に興味をかきたてられるような問題の配列,授業書の作成が,この授業の正否を決
することになる。
 予想が選ばれたら各人の予想を公表し,集計する。それから,それらの予想を選んだ
理由(仮説)を出し合い,討論させる。ここでは,教師は討論がかみ合い深化するように配
慮するだけで,討論の結果正しい考えが優勢になるように方向付けることなどいっさいし
ないのである。
 何が正しいかは,次に行われる実験結果と,それらの討論の内容とを結び合わせること
によって,各自が納得できる範囲で受け止めればそれでよいのである。だから実験後,教
師はその実験から何がわかったか,くどくど説明しないことになっている。そうしなくても,適
切な問題が続けて3〜4題与えられさえすれば,ほとんどすべての生徒は,遅かれ速かれ,
そこで問題になる法則や概念に気づき,それを身につけてしまうことが可能なのである。
 授業書には,その他,教師の側から積極的に与えておいた方がよい概念とか法則とかの
説明や読み物などが準備される。また,かなり法則・概念が身についたところで,「問題をつ
くれ」という問題も与えるようにもなっている。
 
 仮説実験授業は,授業書で授業の法則性を鮮明にすることによって,子どもの自発性と
教師の指導性とを,互いに他を昂揚させるような矛盾として積極的に認めるわけである。一
方では,従来認められがたいと思われていてほどに,授業書の系統性を重要視するかと思
えば,他方では,生徒の自由な発想に対する教師の介入を全面的に排除するということの両
方を,授業の中に取り入れることに成功したということもできる。
 また,仮説実験授業は
1.科学的認識は,対象に対して目的意識的に問いかける実験によ
  ってのみ成立する。
  2.科学的認識は,社会的認識である。
という,二つの命題を基礎にして構成されているということができる。ただ漫然と知識を受け入
れているだけでは,断片的な知識は得られたとしても,とてもや科学的な認識へと高まっていか
ない。
目的意識的問いかけ−実験
によって,科学的な認識が成立するわけである。
 また,討論によって,相手の立場,自分の立場を意識化することによって認識そのものが,社会
的に高揚していくことを体験するわけである。
 
 以上のように,仮説実験授業は,授業の基本的な矛盾を認めながら,科学上の基本的な概念
の育成を目指したものといえるのである。
                                      1977,10,29(補充西村)
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