プレートテクトニクス仮説論争


                                                          西村寿雄

T プレートテクトニクス仮説論争

この時期,地学団体研究会が発行している『地学教育と科学運動』という研究誌の
編集が大阪に回ってきた。そこでわたしも編集委員の一員になって
,「石ころのなか
ま分け」「石ころと砂鉄」などの資料を出したりしていた。その『地学教育と科学
運動』におもしろい論文が掲載された。

 まず,19838月に刊行した12号にプレートテクトニクスを日本で意欲的に紹介し
ている上田誠也氏から「プレートテクトニクスに対する反論を検討する」という論
文を寄せられた。上田氏がわざわざ対立する地団研の研究誌に私見を掲載されたの
は異例だった。その論文によると
,上田氏などのテクトニクス派と反対派の主張の違
いがよくわかる。少し
,長いがまずは上田氏の論文を一部転載してみる。

「プレート批判の立場の方々の見解には、しばしば、現今、プレートテクトニク
スがあたかも真理そのもののように中学や高校の教料書にもとりあげられ、地学
者は軽薄にも盲目的に自らの研究テーマがプレートテクトニクス原理で説明でき
るものとしている傾向すらあり、憂慮すべきであるという指摘がある。主観の差
といってしまえばそれまでだが私にはそうは思えない。

わが国は、地団研の先生方のニラミが利いたせいか、ソ連と共に、プレートテ
クトニクス受入れが最もおくれている地学先進国の代表である。地球物理の方は
そうではないが、地質の方は全体としては明らかにそのようだ。だから、現在の
パラダイムの中では、日本の地質学は先進国のそれとはいえない面が多い。プレ
ート批判の先生方の憂慮は、紀憂どころか、私としては逆の方が憂慮すべきこと
のように思われる。

 中学・高校でもプレートテクトニクスをうんと教えるとよい。世界の学問はど
んどん進んでいて、プレートテクトニクスの限界は日に日に明らかになりつつあ
り、次への改革・脱皮がおこる日は遠くないだろう。しかし、それはプレートテ
クトニクスからの発展なのであって、いつまでもプレートテクトニクスは仮説か、
理論か。仮説なら教えない方がいいかもなどといっていては遂にどうにもならな
いことになる。そもそも、教科書に書いてあることがすべて真理だという発想は
おかしいのではないだろうか? プレートテクトニクスというものの見方を教え
ることと、それですべて解決したとすることは全く別のことではなかろうか。

若い人々には、その時代の学問の生きた姿を伝えたいものである。」

もちろん,地学の専門的な内容についても「プレートテクトニクス反論のいろいろ」
 として取り上げられ
,それへの上田氏の見解も述べられている。

これに続いて,翌年発行した同『地学教育と科学運動』13号に,プレート仮説反対派
 の張本人
,藤田至則氏の論文も投稿された。藤田至則氏の文も一部抜粋で紹介する。

「 1.仮説から法則へ

  わがプレート説は、果して今、どの段階にあると考えてよいのであろうか。 
上田誠也氏が、本誌
12号に、私も含めた反プレート論者へ反論する論文をよせてい
る。その中で、プレートの形態とそれが水平方向に年
510センチずつ動いている
というプレート説を“狭い意味のプレート説”とよび、それは、
1960年代に早くも
事実となったとのべている。

 ところが、1976年、プレート概念を提唱したフランス人のルピション博士は、
海嶺へもぐって、海底が水平移動する事実を地質学的につかまなくてはならないと
書いている。日本のプレート説の信奉者と、プレート説の発想者との、この認識の
ずれを知って戴きたい。


 2.法則から真理へ

  法則化された仮説がやがて真理へ転化する過程について、井尻正二氏は『井尻
正二選集』第
8巻で、「(法則化された仮説が)技術に応用され、生産に役立ち、
人類社会に貢献してはじめてく客観的な“真理”として認められるようになる。…
…それ(は)…実践の試練にたえるまでは、万人が認める真理(=客観的法則)に
はならない」と指摘されている。

 要するに、目にみえないあやつり人形の糸のような法則は、実践の洗礼をうけて、
はじめて目に見える客観的法則
(真理)に転化するというのである。

 上田氏はさきの主張の中で「仮説…は、だんだん確からしくなって理論とか学説
とよばれるようになっても、それは千古不滅の真理とはならない。そういうものは
宗教にあっても、科学にはない」と言い切っている。これは、法則と客観的法則の
区別、あるいは、社会的実践(生産
etc.)が、歴史的に人類の英知(真理)を遺産
として積みあげていくものであることを無視した非科学的な論理というべきである。
()

3.プレート説の方法論

日本の地学界における一流どころの研究者の多くが、こうしたプレート説を借り
た仕事に浮き身をやつしている現実である。
23流どころの若手研究者が、プレー
ト説をかつぎまわるのは良しとしても、プレート説のあれこれのモデル作りを競い
合うことで、一流研究者の仲間入りをしたと錯覚する手合いが増えていることにつ
いてどう考えたらよいのだろうか。たとえ、披らがどんなにはでに振舞おうと、し
ょせん、借り物にものをいわせているにすぎないのである。

4.独創が欠落している日本の地学界 

日本の地学者の異常とも思えるプレート説への傾倒ぶりは何をいみするのであろ
うか。井尻選集が随所で説いているように、様ざまの歴史的背景のもとに醸成され
てきた、日本人の独創性の欠落にその本質があるのであろう。そのうち
4つ程のこ
とについて評者なりの紹介をしたいと思う。

として

 A.生産面と切離された日本の地学 

B.日本人の物質的・精神的生活(の貧しさ)

C.体験的方法の欠落

を取り上げている。

とにかく,こうした議論はつきるところがない。

このような論争もあるので,1983年に作ったわたしの授業書案の改定もしばら

く凍結状態であった。プレートテクトニクス論を紹介して新たな地球観を書き込むのは,
もう少し地球科学研究の具体的な進展に待とうと思った。

U 日本での新たな研究成果

 プレートテクトニクス仮説は,基本的にはアメリカやヨーロッパの科学者の仮説から出
していた。また
,海洋底拡大という〈観測結果〉も,アメリカやヨーロッパでの巨大資本に
よる観測技術の研究成果で
,しかも,はるか大西洋,太平洋沖の出来事だった。いわば,海外
の研究成果が元になっていた。そこのところが地団研会員の研究者がなかなかストレート
に正面きって受け入れられない要因の一つになっていた。
(,わたしは見ている。)

ところが,1970年代後半になって,プレートテクトニクス論をまさしく日本列島の地質事
象で証明する研究者が現れた。しかも
,地団研の人たちがモットーとする徹底的な地質調
査に基づいて解明した。アメリカに一時研究留学し
,帰国後,高知大学に赴任していた平朝
彦さんである。平さんは
,今まで日本の地質界でもよく分からなかった〈四万十帯〉
(シマントタイ)に目をつけた。

〈四万十帯〉というのは,日本の中央構造線の南側に大きくはりついている謎の地層であ
る。この四万十帯は
,地層が入り乱れ,従来から地質の研究者たちを悩ませていた。

平朝彦さんは高知大学に赴任したことをきっかけに,この四万十帯をくわしく調べてみた。

                 

すると,驚くことに,この四万十帯には,さまざまな堆積物の間にチャートや石灰岩,海底
噴火の溶岩など
,はるか南の深海からやってきたとしか思われない地層がごちゃまぜ(メラ
ンジュ状態
)に混入していた。平らさんは「それは,海洋プレートの運動によって南の海か
ら日本に移動してきて
,日本列島付近に張り付いたからではないか」と考えた。この〈四
万十帯〉に堆積している溶岩や石灰岩の残留磁気が赤道海域で形成されたことを示して
いることからも
,この考えが確かであることが裏付けられた。

このことをもとにして,北海道の地質構造を初め,伊豆半島など日本列島の複雑な地質構
造を次々と解き明かした。このころからチャートから放散虫化石抽出の技術も加わり
,
地の地質年代を次々と書き改めるという大革命も起きた。従来
,古生層と呼ばれていた内
帯の堆積層も
,中生代の付加体であることもつきとめられた。もう日本列島のほとんどは,
南からプレートにのってアジア大陸に付加した産物であることがわかった。山口県秋吉
台の石灰岩層の逆転構造も
,この解釈で見事に見直されるきっかけになった。

これ以来,わたしはチャートへの興味を一段と強く持つようになった。日本の地質構造
研究の大変革であった。これはもう
,外国の研究成果ではない。日本の足下での緻密な調
査による科学者の研究成果である。

これらの成果は『日本列島の誕生』(岩波新書1990,10)として出版された。

わたしは,これでプレートの動きについては完全に証明されたと見た。

続いて,杉村新さんたちが書いた『南の海から来た丹沢』(1991,12 神奈川県立博物館)
,プレートテクトニクス論で伊豆半島の成り立ちについて明快に解き明かしている。

 ここにきて,「地球の科学」授業書案も,早急に改訂しなくてはという思いが

強くなって来た。

V プレートテクトニクス論に新展開

そうこうしているうちに,このプレートテクトニクス論に,またまた新たな展開

が始まった。1992年頃になって,さらに画期的な考えが提唱されるようになった。

地球上の各プレートを動かしている根源が観測結果から見えてきたというのである。当時,
名古屋大学の深尾良夫さんたち研究グループは
,なんと下部マントルの中身までのぞきこ
んでいたというのである。

 丸山茂徳著『46億年地球は何をしてきたか?』(岩波書店1993,7)によると,

「 名古屋大学トモグラフィー」は、マントルのほとんどを支配しているのは、従来
信じられていたようなプレート(板)ではなくて、「プルーム(柱)」であるという
ことを如実に示していた。断層写真のように、地球内部
2900Kmまでのマントルの構
造がみごとに視覚的に解析されていたのである。海溝で沈み込んだプレートの行方が
どのようになっているのか、あるいは新しいプレートが生産される中央海嶺の下のマ
ントルの熱構造はどのようになっているのかについて新しい観測データがついに現わ
れたのだ。驚くべきことに、プレートテクトニクスが支配している固体地球内部の領
域は、地球半径の
10分の1以下のほんのわずかな領域であって、地球の大部分はプル
ームによって支配されていることがわかった。この図を見た瞬間、私は新しい理論体系
が作られる予感に胸が高鳴った。 地震トモグラフィーの初期のころの研究は、おも
に沈み込んだプレートの行方に関するものであったのに比べて、名古屋大学トモグラ
フィーは全マントルを対象としているところが画期的である。そこには太平洋中央部
に向かって上昇してくる世界最大のプルームの形状がしっかりと捉えられていた。

                         丸山茂徳『46億年地球は何をしてきたか?』より

プレートテクトニクス論にしろ,さらにそのプレートを動かす元があるはずである。それ
を深尾良夫さんたちがみごとにとらえ
,丸山茂徳さんたちが「プルームテクトニクス」とい
う概念で説明しだした。

図のように,プレートの下にある厚さのある下部マントル部分で,プルームという塊が,
っくりと上昇したり下降していると言うのである。この説からすると数億年単位で
,大陸
が離合集散をくりかえしていたのだという。

 あのウェゲナーの唱えた大陸移動説もその一コマにすぎない。地球の中までのぞき込む
とは
,日本人の地球研究もすごいところまできているのだと思った。                                 

最近になって出版された鎌田浩毅さんの『地球は火山がつくった』(岩波書店2004,4)では,
「新しい地球の見方」として
,このプリュームテクトニクス論を一段と明解に説いている。
読んでいて
,ますます地球内部の動きが明瞭になってきた。

 もう,今は少なくともプレートが動いていることは間違いないし,そのプレートを動かし
ている原動力もつきとめられる段階に来ている。

ここで,参考までに,ウェゲナーの〈大陸移動説〉を扱った他の人の授業書案を紹介
しておく。わたしの手元で確認できるものとしては

 1.  清友兵庫「プレートテクトニクス」19p

    1983年 中高校向け  

  大陸移動説の復活と,海底拡大説,プレートテクトニクスの話など

2. 竹内徹也「大陸移動説入門」18p 1986年 

  板倉聖宣著『砂鉄とじしゃくのなぞ』

  『磁石の魅力』をもとに編集

3. 峰尾秀之「引き裂かれた大陸」12p

  1988年 中高校向け

  海洋底拡大説,中央海嶺調査の話がくわしい

である。

鎌田浩毅『地球は火山がつくった』より 

関連して板倉聖宣さんが,地球の内部構造を扱った「地球」を1982年に公表されている。
(「たのしい授業」0号掲載)

                              「研究」へ

                                                         2004,11