64 2002年6月号
一筆啓上ワイド版・番外編

100号の新聞発行と新聞配達
忘れられないガガーリン少佐 多くの陰日向のご支援に感謝

 飛耳長目も今月で100号。
自ら新聞を発行するとは思いもしませんでした。
新聞といえば、幼い頃の思い出があります。

働く喜びを知った中学時代の新聞配達
(読売新聞寺田町店)
 小学校6年生の級友の中に大人びたY君がいました。
ある時、新聞配達を一緒にしないかと誘われ、私の家も
裕福でなかったので紹介してもらった。
学校では当然アルバイトは禁止。といっても小学生で
働いている人はいません。
学校にも親にも内緒であったので夕刊だけの配達
です。
ある時、学校で担任のE先生に、新聞を抱える綿布を
持っているのを見つかりました。
「何を持っているのか?」、「いえ何も……」E先生はじっと
綿布を見つめていたが、何も言わず見逃して
くれました。
新聞配達は中学生途中まで続きました。
百数十部の夕刊を肩から綿布で抱え徒歩で配るので、最初はずっしり重く辛いが、だんだん軽くなって
くるので最後は辛いのも忘れています。
毎月入れ替わりがあり配達先と順路を覚えるのが大変。
最後の方になると残りの配達先より新聞が多い時があります。
そうなればもう一度、最初から入れ忘れた家を探さなければなりません。
そのため、最後の家の人からよく怒られました。
そのような時は玄関戸の隙間に音がしないように挟み込むのだが家の中から「遅いぞー」と怒鳴り声が
します。
ある時、恐ろしい形相で家の前で待ち構えているではありませんか。
これはヤバイぞ。
「また遅い。なぜだ!」、「はい、すみません。実は大ニュースがあったそうです。」
その日は、1961年(昭和36年)4月12日。
夕刊をわたすと一面トップに「ソ連が世界初の宇宙飛行に成功」の記事。
旧ソ連が世界初の人工衛星ボストーク1号の打ち上げに成功。
世界初の宇宙飛行士となった27歳のガガーリン少佐が、地球を1周し1時間48分の軌道飛行ののち無事に
帰還、「地球は青かった」という簡潔で印象的な名言を残した大ニュースでした。
そのため、配達店に新聞の到着が遅れたためでした。
「これはおめでたい。許してやる」と言われ、それからは、遅くなっても「ごくろうさん」といってくれるように
なりました。
だからガガーリン少佐のことが私にとって忘れられない大事件です。

高校1年の時、黒門市場・魚半
(現在は転業)でバイト
 中学を卒業する頃になると誰しも進路に悩むものです。
家が貧しかったこともあり早く親を楽にしてやりたいという思いも
強く、当時は集団就職にみられるように中卒者は金の卵で
いくらでも就職先がありました。
N社に就職が決まりかけていましたが、近所の大阪工大学生の
Yさんが、「大阪工大高校は母子家庭なら授業料が免除だから
進学したほうが良い」と言われ受験することに。
ところが、入学してみるとそんな免除制度はありません。
仕方なく、黒門市場の魚屋や餅つき屋など数々のアルバイトに
精を出しました。
担任のH先生が見かねて、大学の給仕に推薦してくれました。
大学二部の非常勤講師室で授業が終わり休憩している先生に
お茶をだす程度の仕事で留守番をしているような楽な仕事です。
昼は生徒、夜は職員として働いたことで、時間的な余裕も生まれ
卒業できた次第です。
このように私の成長の陰には、多くの先生や先輩の力が
ありました。
今でも感謝しております。
また、現在も議員として多くの皆様の陰日向にわたるお力を得て
務めさせて頂いております。
皆様のご支援なくして議員活動はできるものではありません。
いつまでもお世話をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。


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