1995年1月17日未明。
未曽有の巨大自身で、私たちは終生忘れられない体験をしました。
あるいは家の下敷きになって、あるいは炎熱に焼かれ、多くの人々の尊い生命がなくなりました。
「なんとしてでも、災害に強い都市づくりを実行しなければ・・・」
それが、私の政治家としての、亡くなられた方々への鎮魂と同時に責務を果たす仕事だと肝に
命じました。
私たちは、「多くの尊い生命の犠牲」を無駄にしないためにも、この震災から多くのことばを
学ばなりません。
到るところで道路隆起し、電柱や信号機は軒並みなぎ倒され、陸の孤島と化した被災地の
中心部は、逃げ道を閉ざされたまま炎に焼き尽くされる。
これは映画などではなく、私達の目の前で起こった、紛れもない事実。
まず、被災地の多くの生命を救出すること。
そのためには最悪を想定したクライシスマネージメント(危機管理)が是非とも必要です。
消防、警察、自衛隊、医療、民間レスキュー組織。動ける者、機関のすべてをただちに動員できる
行政機能をつくらなければならない。
私は、政治家のひとりとして、煙と熱気の残る被災地の現場に立って、重大な責務を負うことを
覚悟しました。
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1月20日未明。
震災の翌々日、友人・同志とともに、徹夜の作業で被災地に
救援物資を届けました。
被災地で、救援物資の荷下ろし作業。
皆、寒さも感じないほど必死で働きました。 |
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1月20日夜明け。
まだ煙と熱気の残る被災現場に
立って、一瞬、頭が真っ白に
なるほどの衝撃を受けました。
倒れた信号機や電柱が道路という
道路を塞ぐ。
死に直面した市民の救出に、ヘリは?
装甲車は?オフロードバイクは?・・・。
これはNOといってはいけない
課題です。
考えられるすべての方法を総動員
して、どんな方法を構でも尊い生命
だけは救わなければならないのです。 |
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