『科学読み物と科学』      
                         板 倉 聖 宣
 
(この話は、1999年11月11日 横浜市港北図書館で、お母さん方対
 象に話されたものです。演題は、講演内容より西村がつけたものです。ここ
 では、直接科学読み物に関する部分のみです。)
     
 わたしは下町生まれで早口です。関西などでわたしが話をすると「何か、し
かられているようだ」と思われるようです。わたしの本を読んでくださって、
わたしの印象を持っていてくださる方は、たいがいわたしのことを良く思って
くださいます。しかし、会うとがっくりされることがあるのです。本の方が本
当の板倉で、ここにいるのはオバケの板倉です。
 わたしは、子どもの本もたくさん書いていますが、最近はあまり子ども向き
の本は書いていません。ですから、みなさんがお子さんと一緒に、わたしの科
学の本を見るチャンスは減っているかもしれません。
            
いい本には〈序文〉と〈後書き〉
 自分でたくさん本を書いていると、どうしてもこういう話をすると手前味噌
になります。自分で本を書いていなければ手前味噌になりませんが、たくさん
書いているとどうしてもほめたくなります。
 自分が本を書いている時は「今まではこういう本がないから、こういう本を
書いた方がいいのではないか」と思って書くものですから、自分で書いた本は
いいに決まっているのです。ところが、不思議なことがあるのです。今、わた
しは「自分で書いた本はいいに決まっている」と言いましたが、どうも世の中
の著者の大部分はそうではないらしいです。
 ある本がいいか悪いかということを見るための一番簡単な方法が一つあり
ます。それは、序文か後書きを読むことです。人間ってなかなかうそをつけな
いもので、自分の本が良くないと思うと、序文や後書きに「この本は良くない
が…」と書いてあります。「良くないが…」と書いてあればたいがい良くない
です。遠慮深くて「良くないですが」と書いている人もいるのですが、たいて
いそのあとで「いたらぬ本ではありますが、わたしとしてはせいいっぱい書き
ました。」と書いています。
 児童文学などを読まれる方が多いと思うのですが、文学的なものは、はしが
きとか後書きとかないのが当たり前です。しかし、科学的なものは、序文と後
書きがあるのが当たり前です。
 わたし自身は、本を書くときは序文と後書きにすごく力を入れます。ここに
は、わたしの思いを読者に伝えたいことを書きます。本文の方は自分の思いと
いうより本文そのものです。ここには個人的な著者の思いとかあまり書かない
のが普通です。しかし、わたしが本を書くときは、序分とか後書きになぜこの
ような本を書いたのか、どういう裏の事情があるかということを書きたくなり
ます。わたしは、これは本の生まれの出生のあかし、へその緒のようなものと
思います。時々、文学ものでないのに、はしがきも後書きもないか、あっても
ほんの少しぎりで入っているような本は、おへそがないという感じがして残念
に思います。
 
「科学読み物」と「自然の本」
 今日は、科学読み物の話をするわけですが、科学読み物と似た言葉にいくつ
もあります。誤解される可能性があるので、初めに言っておきます。まず、科
学の本というのがあります。科学読み物と接近したものに自然の本というのが
あります。「タンポポ」とか「ヒガンバナ」とかいうような自然の事物をとら
えて書いた本です。これが、科学読み物だと思っておられる方がおられます。
それから、知識の本というのがあります。科学読み物は知識の本の一つだと思
っている方がおられます。
 たとえば、「ファーブルの昆虫記」などはあきれるほど細かく観察していま
す。あれは科学読み物か自然の本かというと、これは自然の本に近いです。こ
れは科学読み物とはちょっといいにくいです。
 日本では、ファーブルはすごく有名です。しかし、ご本家のフランスではほ
とんど知られていません。イギリスでもアメリカでも知られていないです。フ
ァーブルをよく知っているのは、日本人とロシア人のようです。英語の本で、
ファーブルの本を探そうとすると大変です。
 岩波書店が最近、イギリスのオックスフォード大学と一緒に「世界人名辞典
」という立派な本を作りました。そこで、ファーブルのことを調べたいと思っ
てひいてもファーブルが出ていないのです。「岩波書店がちょっとおかしい」
と思われるかも知れませんが、これはイギリスのオックスフォード大学と共著
なので出ていないのです。大きな人名辞典ですが出ていないです。日本の本な
ら絶対出ています。原本は向こうで出た本だから出ていないのです。日本の読
者には、ファーブルの項がない人名辞典など考えられないことです。
 それはなぜかと言うと、日本ではファーブルさんは文学的であると同時にす
ごい科学者だと思われているのです。ほかの国では科学者と思われていないか
らです。
 知識の本というのがあります。小学館とか学研とかいうところがたくさん出
しています。科学読み物とこういう知識の本との関係はどうかというと、もち
ろん重なることがありますけれど、これは自然の本です。自然について書いて
います。
 
科学読み物は人間の物語
 自然と科学と同じではないかとも思われます。しかし、自然があっても科学
はないのです。明治時代の科学が入る前には、日本には科学はありませんでし
た。古代にも、中世にも科学はありませんでした。自然はあったのです。桜の
木もありましたし、日本だってものは落ちたし、雷が落ちました。自然はあっ
ても、科学はなかったのです。自然が科学になるためには人間がいります。昔
だって日本に人間はいましたが、科学者という人間がいなかったのです。
 科学者という人間がいて初めて科学が成立します。ですから、科学読み物と
いうのは人間の物語なのです。自然の物語ではないのです。自然の物語は自然
の本なのです。
ファーブルさんはそういう自然の物語を書きました。自然の美しさとか、自然
の不思議さとか、自然のおもしろさとか、自然の嫌らしさとかです。
 ファーブルさんは、自然の美しさばかり書いています。でも、ファーブルさ
んが最も最初に若い時に昆虫の話を書いたときは、昆虫は敵だということで書
いています。
ファーブルさんは子どもの時に自分で木を育てていました。ある日、その木が
折れてしまいました。「だれが折ったのだ」とさわいで、けっきょく根切り虫
が切ったのだということになって、そういう悪さをする昆虫に対して怒りを覚
えて、それから昆虫の研究をするという物語になっているのです。あの昆虫記
の話はみんなお年寄りになってから書いたものが多いのです。
 科学には人間が入っています。しかし、知識というものには作った人、研究
した人のことが抜けてしまいます。だれが研究したか、だれがどうやって発見
したかということはほとんど無関係になります。雷はこういう仕組みで起こる
のです、地球は丸いですよという知識は、どうやって発見したかということと
は必ずしも関係なくあります。これは文学と少し違います。科学は知識を集積
していきます。だれが発見したかということとは無関係に知識があっても、そ
の知識は役立つわけです。これはすばらしいことです。すばらしくない知識は
捨ててしまうのです。すばらしい知識だけが残るのです。
 科学読み物というのは自然について書いてあるかどうかということもありま
すが、わたしは、自然の科学の読み物だけを作っているのではありません。社
会の科学の話も書いています。わたしは社会の科学についても絶大なる関心を
持って研究していますので、わたしが科学という時には自然科学だけを言うの
ではありません。
 社会の科学の本というのはほとんどないのです。社会の本というのは、むし
ろ社会についての知識の本としてあります。歴史物語などは好きな子どももた
くさんいます。歴史の知識の本というのはありますが社会の本というのは少な
いです。
 日本だけでなく世界でも科学の本はほとんど自然科学の本です。社会に関す
る読み物は非常に少ないです。ですから、科学読み物というと、ほとんど自然
の科学の読み物となりがちです。
 
科学読み物とは科学者のすばらしさを書いたもの
 科学読み物というのはどういうものかというと、とりあえずは科学者のすば
らしさ、科学する人間、科学を作った人間のすばらしさがわかるように書いた
本です。一番基本的に大事なのは、読者を科学者になった気持ちにさせて、読
者が「わたしはすばらしい」と思えるように、「おれはなんて賢いのだ」と思
えるようにすることです。それは魔術とか催眠術によってするのではありませ
ん。
 わたしどもの提唱している仮説実験授業というのがあります。そこでの授業
で一番感動的な場面は何かというと、「わたしがすばらしい」ことを発見でき
ることです。そして「友達がすばらしい」ことを発見できることです。わたし
だけがすばらしいのではないです。ともだちもすばらしいのです。
 その時に、クラスの優等生がすばらしいと思うことは割合に簡単です。私の
子ども二人とも女の子ですが、「クラスにこんなにすばらしい、優等生の子が
いる」といいました。優等生はすばらしく見えます。でも、小学校の優等生と
いうのはたいてい親の影響が大きいです。私の子どもは予習とか何もしません
が、そのかわり「学校に行ったり帰ったりするときには道草をしてこい」とい
うのがわたしの教訓でした。そこで、いろんな知識が入ります。知識を広めて
いくときに、大いなる空想をもって仮説というものを持つといいのです。
 科学読み物を書くときはほとんど自然科学のものになります。仮説とか、実
験とかいいますが社会の実験というのは大変むつかしいです。社会のことは実
験できないと言う人がいますがそういうことはありません。
 
科学読み物とは
 〈科学というものは対立して実験しないとわからないのですよ〉ということ
を知らせるのが科学読み物です。このことは、自然科学の場合はすぐに実験が
できるのでわかり易いです。科学読み物を書くには、そういうことが子どもた
ちによくわかるように、よく伝わるように、子どもたちに読んでもらう話を書
きます。また、科学者などが意見の対立などをして人間的な動きをしたことを
書いたりします。そういう話はすべての人たちが興味を持ちます。
 科学の話というと、これは理科系の話だとみなさん思いがちですが、理科系
の話ではないのです。科学の話では、もっと広い一般的な、本当のこととうそ
のことを見分ける見方や、絶対そうだと言うことはそう簡単には言えないとい
う考え方を伝えることです。
 例えば、わたしの『科学的とはどういうことか』という本があります。この
本は、みなさんが想像する中味とはぜんぜんちがうものが入っています。江戸
時代の人々のものの考え方をさぐるとか、自然界の発明発見物語、社会の科学
の発明発見物語などもあります。こうしたらいに決まっている、ああしたらい
いに決まっているのではなくて、やはり実験をして、一つ一つ確かなことを作
っていく、そういうことを学べるのが科学読み物だと思います。
 科学読み物には、たくさん自然の読み物があったり知識の本がありますが、
本当の意味で、科学のそういうおもしろさ、感動的なことがわかる本というの
はほとんどないのです。加古里子さんなども低学年向きの本を書いたりしてい
ます。あの人の本は、わりあいそういうことに近い人です。
 わたしの本は、基本的には今いったような科学、そういう人間的なものを書
くような形になっています。
 
何冊かの科学読み物を読む
 具体的な科学読み物は私がたくさん書いていますので、それを見ていただけ
ればわかります。わたしは、科学読み物は易しすぎることは絶対ないと思いま
す。難しすぎることはあります。前提の知識が必要なことがあったり、字が読
めないことがあったりします。だけど、易しすぎることはないのです。同じ本
を二度読むと易しく感じることはあります。
 わたしの書いた本は、ほとんどみなさんが他では知り得ないことが書いてあ
ります。大学の講義の時に、小学生の低学年の本を大学生に読ませたことがあ
ります。「自分の弟や甥や姪に読ませると思って、小学生向きの本を買って読
むように」と言ったのです。そういう時に重要なことは、二冊読むことです。
 科学の本を読む時に大事なのは、科学の本を読んで自分がよくわからなかっ
たり、おもしろくないと思うと、「ああ、やはりわたしは理科だめだからな」
と思ったりしないことです。文学物と同じです。みなさんが文学物を読んでお
もしろくなかったら、この作者だめだと思います。自分が学力無いからこの小
説はおもしろくないとは思わないです。
 科学の本も同じです。読んでおもしろくなかったら著者が悪いのです。ある
いは、相性が悪いのです。こういうことに関心が無かったのです。
 そういうことを子どもにわからせるためには、子どもに一冊の本を読ませて
はいけません。一冊の本を読ませると必ずほめます。おもしろくないのにほめ
ます。おもしろくないのにほめるから、結局は本が嫌いになるのです。どんな
本でも、いいところの全然ない本はありません。どこかほめるところはありま
す。少しほめたら、本とはせいぜいこんなものだと思って本が好きにならない
のです。
 例えば、ファラデーの『ローソクの科学』はすごくいい本になっています
が、うそです。ファラデーさんという人はすごく優秀な科学者で彼自身の研究
はすごくおもしろいですが、『ローソクの科学』は博物学的になっています。
「おもしろくない」と思うみなさんの方が正しいです。
 この本にもおもしろい所はもちろんあるのです。だから、何冊かの本を読ん
で、つまらない本とおもしろい本が世の中にある、科学の本の大部分はつまら
ない本だと知ることが大切です。知識がほしい時に読む本は、下手な書き方で
も役立ちます。知識の本というのはそういうものです。何か食べるものを作り
たいときは料理の本を読むより仕方のないことです。
 
 科学読み物が好きになるには、おもしろい本をさがすことが大切です。文学
でもつまらない本を読むと文学が嫌いになります。おもしろい本をさがして読
んで下さい。少なくともわたしの本は面白いと思います。
   
   (この講演では、他に、「科学とはなにか」について、かなり丁寧に語
    られています。)                 (文責 西村)

◆全文は「科学読物研究」 0号に掲載

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