仮説実験授業研究会2004夏の大会

開会講演

   科学読み物と説明文
        
           「科学読物研究」23号 一部抜粋

                        板 倉 聖 宣

読物は〈動機付け〉から始まる
 私は文学的な教材は読みたくなかったのですが,科学の説明文は読みたか
ったのです。説明文は「説明を聞きたい」という人がいることを前提にし
ています。ワープロなら「ワープロを使いたい」と言う人がいて説明をす
るのですから,〈動機付け〉は読む側にもともとあるのです。〈動機付け〉
が要らないのです。しかし〈動機付け〉があっても,忍耐力には限りがあ
るから,説明文が読めなくなっちゃうのです。
 ところが科学読物の方は,例えばこの本だって,何かの偶然で今日持って
いるのかもしれないのだけれども,これはお婆ちゃんが買ってきたから仕方
なしに読むとか,宿題だから読まなければならないということがあっても,
それがなかったら読む気が起らないのです。それにもかかわらず,「読むの
はなぜか?」というと,前に似たようなものを読んで,それが楽しかったか
らですね。
 それで,説明文というのには,「この本を読むのか,読まないのか」とい
う〈動機付け〉があるとは限らないのです。基本的にないのです。    
  一方「〈動機付け〉から始まる」というのが読物の性格です。
 国語の教科書に載っている科学的な説明文と称する読物は,大なり小なり
〈動機付け〉から入っております。明治の初めの頃には国語の読本に入って
いたのは本当に説明文であって,読物ではないものですから,空気というテ
ーマでは「空気は無色透明にして,味なし」というところから始まったりし
ていて,「そんなこと知っているよ」となります。〈動機付け〉なんてこと
は全然考えていない,空気について理科の教科書の説明文なのです。
 理科の教科書の説明というのは,大体〈動機付け〉を考えてないでしょう。
理科の教科書は「こうやると,こうなる」という話であって,「そしてこう
いう法則が成り立つのだ」という話になっていたり,「よくよく観察すると
こうだ」ということが書いてあったりする。それで,ほんのちょっとは「ア
リの足を見てみよう」なんて〈動機付け〉があったりするのですが,「どう
して,そんなものを見なければならないのだ」となったりします。
 私みたいなひねくれた子どもは,「桜の花を観察すると,桜の花びらが5枚
あって
」などと書いてあると,「どうしてそんなものを見なければいけな
いのだ」となるのです。僕は小学校の4年の頃から〈道徳的にはすごくいい子
であった〉と自信があったのですが,理科というと途端に観察をする。「観
察をすると花びらが4枚で,オシベがたくさんあって,
」と,「そんなの見
たくないよ。見てどうするのだよ」と思ったのです。
 科学は〈動機付け〉がないとやる気がしないのです。本当は,そういうこ
とは科学を学んだ人はみんな知っているはずなのに,忘れてしまっているの
ですね。

国語読本の科学読物に多くの子どもが影響を受けた
 それで,一応科学教育の話をしますが,明治の半ばぐらいに,今の理科教育
の伝統が完成することになります。
 その当時の国語の教科書は『国語読本』といって,その中には科学的な読物
があったのです。しかし,理科の先生はどう考えるか。理科というものは読む
ことからはじめてはならない。知識は自分自身が実験・観察したところから始
まるのだ。だから,「実験・観察する教科,読まない教科が理科で,読む教科
は国語だ」という分業がはっきりと起ってきたのです。
 私の時代だと,いわゆる国語読本でしたが,〈動機付け〉などが書いてある
文章に「僕の望遠鏡」というのがありました。それには,「望遠鏡を誰かから
教わって作りました。そうしてそれで眺めたら,とても面白かったです」とい
う話なのです。それで,その望遠鏡を作ったプロセスも書いてある。「この望
遠鏡で見ると楽しいのだなあ」というわけです。
 この「僕の望遠鏡」という文章には「望遠鏡を作れ!」なんて書いてないです。
国語の教科書なのですから,「作れ!」と書くのは工作の教科書です。そうい
う分業が非常にはっきりしています。国語の教科書には「眺めて楽しかった」と
書きます。だから,私は国語の方がたのしい話があるから好きだったのです。
「望遠鏡を,レンズをこうやって,筒を紙で捲いて作って見たら,いろんなも
のが見えて楽しかった」という話なのです。
 その話を読んで,科学者になった人は少なからずいるはずです。それを読ん
で,自分で望遠鏡を作ったという人が結構います。そこには「作れ!」とは書
いていないのだけども,楽しいから作っちゃうのです。もちろん,すべての子
ども作るわけではなくて,将来科学者になるような人たちは,かなりそういう
工作に手をつけているのです。
 それで,その国語の本の「僕の作った望遠鏡」というのを,理科的な教科書
にしようとしたら,どうするのか。「あなたも作ってみましょう」と最後に書
くのですね。その途端に面白いものでなくなっちゃうのです。もう勉強するの
は嫌だと。その教科書に出てくる子どもが「作って,楽しかった」という話が
楽しいのです。最後に「あなたも作ってみましょう。何を準備したらよろしい
でしょうか」と,いかにも理科的な教科書のように書くと,もうそれは面白い
ものではなくなってしまうのです。
 実は,敗戦後の教科書にはそういう教科書がたくさんあるのです。「楽しい
だけではいけない」という,おっかない教育関係者が,全部うしろに問題を与
えてしまう。そして,教育をしようとする。だから,そういう意味では,たの
しい授業の発想は,いわゆる教育系の人たちとは逆行した形でやって来たので
す。


科学は文学の一部
 実は先月に,ある大学院で仮説実験授業研究会の会員が,科学読物をテーマ
にしたドクター論文を提出したものだから,科学読物がとても気になるのです。
不思議なのですが,科学読物の〈序文〉や〈あとがき〉には,「科学は読むだ
けではいけません」とさんざっぱら書いてあるのです。いや,「読むだけでは
イケマセン」と書いてあるのではないです。「読んではイケナイ」という雰囲
気で文章を書いているのです。「科学は実験をすることです。観察をすること
です。自分で観察して,自分で実験して,初めて自分のものになるのです」と。
そういうことが最初に書いてあると,「この本を読むな」と言うのと同じでし
ょう。これは,全部調べたら面白いのですが,ある時期から「読むな」という調
子で,全部の読物が書かれるようになっています(笑い)。「これは,なぜか?」
と言うと,理科教育の伝統の中に,「理科というものは,自分で実験・観察す
る教科である。自分で実験をしないで,いろんな知識を仕入れたらイケマセン」
ということが入ってきたからなのです。
 明治の初めには,そういうことはありませんでした。科学も文章で書かれてい
るから,科学は文学の一部なのです。体育は文学ではありません。体育は文学で
ないことは明らかですが,しかし,理科は文学なのです。江戸時代の科学者は
「蘭学者」と呼ばれていて,その蘭学者というのはオランダ語を読む人だったの
です。その次には英語になって,英語を読む人が日本最高の学者だったのです。
だから,読む人が一番上だったのです。
 ところが,たいがいの科学の本は素人が読むことを考えていませんから,読ん
だだけでは理解できない。だから,仕方なしに実験をやったのです。福沢諭吉な
んかは化学の本を読んでも分からないから,「本当にこうなっているのかなあ」
と,船の上でアンモニアの実験をしたりしているのです。でも,いい本を読むと,
読んだだけで分かってしまう。分かってしまえば,もうそれでいいのです。

〈見方・考え方〉を教えるのが科学教育
 つい最近に古本屋で『日本人のきた道』(池田次郎著 朝日選書1998)という本
を買ってまいりました。私は仮説実験授業研究会の人たちが興味を持って,「な
にかの授業書を作ろうか」と思い始めるやいなや,私はその同じテーマの本をた
くさん買い集めて,「そういう人から質問や意見が寄せられたら,それに対応出
来るようにしておく」という,大変いい指導者です(笑い)。
 で,この本は日本人のルーツ〈日本人の来た道〉という本なのですが,日本人
の来た道を最初に問題にした人は誰でしょう?
 例えば,大森貝塚という貝塚があります。日本人のその辺に住んでいる人たち
は,大森貝塚はずうっと前から見ているし,よく知っているはずなのです。しか
し,「ああ,あるな」と見ていただけなのですね。しかし,これをアメリカ人の
モースさんが電車の中で,いや,東海道線の汽車の中から眺めていて,発見した
のです。昔の列車ですが遅くたって走っているのです。その中から,「あ!あれ
はなんだ。貝塚じゃあないか!」と思ったのです。だけど,モースさんの前に,
その大森の貝塚が気になった日本人は誰もいなかったのです。なぜでしょう?
 問題意識がなかったらそんなものは気にならなかったのです。だいたい,大人
になるとだんだんと好奇心がなくなると言われますが,好奇心を中心にして考え
るとすると「良くないことだ」と思われたりしますが,好奇心を失うということ
は素晴らしい防衛本能です。大人になってからも子どもみたいに好奇心があった
りしたら大変です。ちょっとさわってみたり,舐めてみたり,いろんなことをし
ます(笑い)。「そんなことは面倒くさい」と言うことを,大人になるに従って
知ってくるから,そういうくだらないことはしなくなるのです。だから,〈好奇
心〉と言うことだけで書く人は,「大人になって好奇心がだんだんと衰えてしま
うのは嘆かわしい」とか言うのですが,そんなことはないです。大人になって好
奇心を燃やすと言うことは,「焦点を定めて,成果の上がりそうなものに対して
好奇心を燃やす」ということをするので,何でもかんでも,やってみるなどとい
うことはしないのです。
 モースさんは動物学者ですから,進化論を気にしていました。今だってみんな
気にしているかもしれませんけども,ずっと進化論を気にしていましたから,大
昔の人類の問題なんか気になっていて対処していたのです。それでモースさんは,
後になってから発掘をするのです。
 それで,「日本人の来た道を,どういう人が問題にしたのか」というと,まず
この本ではシーボルトです。シーボルトさんは割合に有名ですが,江戸時代に日
本に来た医者で,博物学者で,リンネの弟子筋にあたる人です。
 モースさんは「日本人はもともとアイヌ人であったのではないか? アイヌ人
がいて,それが変わってきたのではないか?」というようなことを言います。
 それから,ベルツさんです。ベルツさんは動物学者ですが,日本に来た理由は
医者で,東大医学部の初代教授です。
 こういう人たちが来て,「昔の日本人はどうであったのか」ということの研究
を始めるのです。そしてこの人たちの影響を受けた人たちが現れてくる。モース
さんには坪井正五郎という東大の教え子がいます。ベルツさんには医学部ですか
ら小金井良精という人がいます。小金井良精という人は森鴎外の妹さんと結婚さ
れて,作家の星新一さんのおじいさんに当たる人です。それから鳥井龍蔵という
人も出てきます。
 それで,日本人の祖先について論じる人は,初めは全部外国人なのです。なぜ
なら,その人たちが実験,観察をしたからなのか。実験観察なら日本人はずっと
しています。しかし,こういう外国人がいなかったら,日本人の人類学は始まら
なかったのです。つまり,〈見方・考え方〉を教えることが,科学教育では決定
的だと言うことです。それで,読物が大事なのですね。
 若い頃から私は「うちの子どもは,いろんな本を読むのが好きで,科学的な本
も読むのですが,理科の成績が悪いです」と言うお母さんがいると,「それは安
心ですよ。理科の成績が悪くても絶対に大丈夫です。読む方が大事です」と言っ
ておりました。「貝殻を見たら人類の歴史がわかる」という〈見方・考え方〉,
そういうことがほんの少しでもあれば,日本に貝塚があれば「すごいなあ。なん
か見つかりそうだなあ」ということになるでしょう。
 科学教育でも何の教育でも,いろんなものの見方・考え方を教えて,初めて実
験や観察が始まるのですね。その〈見方・考え方〉を育てるためには,昔の人が
いろんな〈見方・考え方〉で,どんなに楽しいことを発見したのか,どんなに面
白いことを発見したのかというお話があって,初めて育っていくのですね。その
〈見方・考え方〉を教えてくれるのが読物なのです。
 ところが,科学読物なんかをよく探してみたら,どこかに自然の見方・考え方
が書いてあるのかというと書いてないのです。理科の知識は書いてあります。そ
して「知識は自分の目で確かめなきゃあいけません。だから,読物なんか読んで
いないで,さっさと観察をしなさい」と,そういう感じで科学の読物を書いてあ
るのです。すごく理科の先生に対しておっかなびっくりで書いています。

〈見方・考え方〉をもっとも優先した仮説実験授業
 仮説実験授業というのは,理科なら理科で,一番先に〈見方・考え方〉を教え
る。仮説実験授業は「そのことを,もっとも優先的に考えた教育法だ」と言うこ
とができると思います。
 理科だって実験・観察から入るのではないのです。「あ,昔の人はそういう見
方をしたから,観察する気になったのだ。実験する気になったのだ」と〈見方・
考え方〉から入っていくのです。その〈見方・考え方〉を書いた本でも,具体的
に何が書いてあるのかというと,知識が書いてあるでしょう。そこに書いてある
知識が「アリの足は6本」だと,それを感動的に書いてあったら,なにも自分で見
る必要はないです。しかし,感動的でなくいい加減に書いてあったら自信がなく
なっちゃいます。
 ある人が,「もしかしたら,虫の足は全部で6本かもしれない」と気になったか
ら,片っ端から虫を見ていったら,「アリも足が6本,他も足が6本だ。しかし,
あきれたことにクモだけは8本だった」というような話を読めば,「ああ,そうか! 
クモだけは違うのか。どうして違うのだ?」という話になって,それで生物学を
勉強する気になるかもしれないのです。だから,科学の読物は〈動機付け〉がきち
っとしていなければならないのです。仮説実験授業ではその〈動機付け〉を大事に
しているのです。
 例えば今,《鉱物の授業書》を作り変えようと言うので,鉱物の話を書こうと思
っているのですが,その時に子どもたちに,感動的な,やる気が起る,「これいい
なあ」と思うような話を書きたいのです。そこで,そういう〈動機付け〉の文章が
必要なのですが,まだどう書けばいいか分からないということがあります。
 この前,読んだ本に素晴らしい本がありました。石田周三著『生命のひみつをさ
ぐる』(アルス,日本児童文庫1958)です。その本は「私は素晴らしい本を書きたいと
思いました」と,なかなか意欲的です。「ところが,書いているうちにだんだんだ
んだんと脇にそれて,とんでもない本を作ってしまいました。これでも私は精一杯
書いたものですから読んでください」とあるのです。
 ところがこの本には,すごく本当のことが書いてあったりするのです。その本に
は,「生き物について研究するには,生き物を片っ端から殺してしまう」と言う話
が出てきたりして,「ネズミを殺すにはどうしたらいいか」とか,「何とかを殺す
にはどうしたらいいか」と,殺す話ばかりを書いてあるのです。だから,確かに殺
しているのですね。確かに考え方によっては,「生きるとはどういうことか?」と
いうことを考えるには,殺し方を知らなきゃあならないということがあります。ど
うやったら死んじゃうのか。「酸欠にしたら死ぬ」とか,「切っただけでも死ぬ」
とか書いてあるのです。
 そういうような話はすごく根本的で,「ああ,なかなか面白いなあ」と思うので
すが,しかし,私には「殺してみよう」なんて話は書けないのです。「昔の人は,
ついうっかりと殺してしまいました」と言う話だったらまだいいでしょうが,子ど
も向けの科学の本で「積極的に殺してみましょう」なんて書くのは,これは怪しい
本だという感じがします。だけど,著者は「いい本を書こう」と思ったに違いない
のですね。ただ,くたばっちゃったから中途半端で終ってしまったのかもしれません。

教育というのは,いやらしいものらしい
 それで,ここのところ特に私が感じているのは,教育というのには,「こういう
人間に育てたい」と,「こうしたい,ああしたい」と言う願いが,その時々にあっ
て,スローガンを変えることによって,日本の教育は変わってきたような気がしま
す。「ゆとりの教育」とか「基礎学力の重視」とか言うと,みんなそうなるでしょ
う。「基礎学力重視」と言うと,「あ,そうか! 基礎学力を大事にしなければい
けないのだ」と,基礎学力を大事にしようとなる。ところが,「基礎学力は大事に
しなくていい」と言った教育論はないのです。「基礎学力なんてどうでもいいから,
よけない勉強だけをさせましよう」というのもありません。
 ただ問題は,理科の時間に理科以外の話をする,国語の時間に国語以外の科学の
話をする,そうするとたいがいは視聴率が高くなるのです。先生が脱線をして教え
ようと意図しないことについては,子どもは教わるのです。みなさんも,自分が子
どもの時に授業を受けていて,先生が脱線した話,そんなところは試験には絶対で
ないというような話,そういうのはちゃんと記憶に残っているのではないでしょう
か。そういう経験があるのではないでしょうか。
 そしてまた,自分が教室で子どもたちに話をする時にも,「これが,その教科の
要点だ」と言わんばかりにしゃべっていることよりも,脱線した話の方が視聴率が
高いと感じないでしょうか。それは,「残念ながら」と思うかもしれないけれども,
本当なのですね。
 教育というのは,どうもいやらしいものらしい。いやらしいということを,子ど
もたちみんな感じちゃっているのです。だから,「先生が教育を意図しないことな
ら身に付けてもいいけど,教育を意図しているやつは身に付けたくない。試験を通
るためにはこっちの方が大事かもしれないけど」と,そういう感じがあるでしょう。
そのことが,今,矢面に立っているのです。
 しかも,どうしてか国語の教育だけ,「著者は,この文章で何を言わんとしてい
るのか」というのが戦後流行ったのです。なにかいやらしい感じがするのですが,
今もまだやっているのではないでしょうか。

著者の意図を隠して読物を書く
 〈説明文〉では何をやらんとしているのか,その意図は分かっているでしょう。
パソコンの説明文ならパソコンが使えることを意図しているのです。ところが読物
の場合は,例えば,ファーブルさんは,〈フンころがし〉の転がし方を教えようと
意図して,〈フンころがし〉の転がし方について書いているのだと思ったら,「フン
ころがしの転がし方を知って,何の役に立つのだ?」となるでしょう。でも実際は,
ファーブルさんが書いた〈フンころがし〉の転がし方などを読んで,「自然って面
白いなあ,うまくできているなあ」とか思うわけでしょう。もちろん〈フンころが
し〉の話なんか読んでも,「自然はうまく出来ていないなあ」と思う人もたくさん
いるわけです。
 あのファーブルさんの初めて昆虫の話は,「昆虫は敵だ」ということを書いたの
です。植物の話を書いていて,「昨日から苗木を大事に育てています。次の日に見
たら,その苗木が根元から折られていた。
誰が折ったのだと観察していたら,そ
れは昆虫だと分かった。昆虫は敵だ。敵のことを知らないと植物は育たない」と,
そこで昆虫の話が出てくるのです。
 日本の昆虫学だって,我が研究会には名和さんという人がいますが,名和さんの
いる〈名和昆虫館〉は,イネや麦の昆虫の撲滅から始まっているのです。日本では,
昆虫の研究には「昆虫を大事にしなければならない」と書いてあったりしますけど,
それぞれ目的が非常にはっきりとしていたのです。
 ただ,読物を書く時には,私などは非常にはっきりと,「何を意図して書いてい
るかを,読者に分からないようにする」という工夫をします。そうしないと,意図
が分かった途端に,子どもの読む興味は減退してしまうのです。「この著者はお説
教をしようとしているな」と言うことが分かったら,もう読むのは嫌になりますね。
 例えば,私の『綜合読本』の中に,「鉄道マニア」という話があります。「鉄道
マニア」という話は,私自身にはそれなりの意図があるのですが,その意図が分か
らないように,分からないように書いています。で,結論的に私の意図を言えば,
あれを書いた理由は,「なにかのマニアになりましょう」ということです。でも
「なにかのマニアになりましょう」とだけ言おうと思ったら,「ああ,そうなの。
著者はそういうことを言いたいの。もういいよ」となってしまうでしょう。そうな
ると,とても読むのが苦しくなります。
 鉄道マニアの話をする時に,「鉄道マニアはどんなに楽しいのか」とか,なぞな
ぞを入れたり,上がりもの,下りもの,くだらないものという言葉の話があったり
して,そのなぞなぞのような話を,「このなぞなぞは面白いなあ」と思って読んで
もらってもいい。そして「僕も鉄道マニアになりたい」と思ってもいい。ただ「鉄
道マニアになりなさい」とは,一回も書いてないのです。
 それで,学校教育のいやらしさと言うのは,ある意味では先生の意図がみえみえ
であることが一番いやらしくて,視聴率も悪くなるのです。ただ,学校の先生はや
っぱり職業柄,願いがあって希望があって教えているのです。でも,それを真っ正
面から出す先生は相当下手な先生です。
 「何の意図があって,先生が教えるのだ」というと,仮説実験授業では「それは
楽しいからだよ。楽しいからこの勉強するのだよ」ということです。楽しいという
ことは,先生にとって楽しいのではない,子どもにとって楽しいのですから,子ど
もにとって楽しい話をしているのです。そう簡単には意図が分からないということ
で,やっているわけです。


最近になって気づいた読物と説明文の違い
 要するに私が言いたいのは,〈説明文は目的意識がはっきりしている〉というこ
とです。でも,はっきりしていたって,説明をしすぎたらみんなに嫌われてしまう。
だから,順序があるのです。〈もし困った時に読むページ〉というのが後ろにあっ
たりするわけで,初めから「ショートした時はどうのこうの」とかは書いてはいけ
ないのです。
 それで,〈読物の方は意図が分からないような形で書く。楽しさだけをねらって
書く〉ということです。子どもたちが「楽しい」と思って読んでくれればいいので
す。「楽しい」と思って読む時には,それは中身があるから楽しいと思うわけで,
その楽しいことにはいろんなねらいがあるのです。
 仮説実験授業は〈動機付け〉を極めて大事にするから,説明も無視はしないけれ
ども,楽しさが大事なのです。「理科は,実験や観察をする教科だ」などと言う,
冷たい理科ではないのです。「実験や観察をすると,どんなにいいことがあるのか,
どんなに楽しいことがあるのか」という話を教わることから,仮説実験授業の科学
教育は始まっているのです。
 これは,世界的にそうなのです。日本の人類学だって読むことから始まっている
のです。決して身の回りのものをキョロキョロ観察することから始まっているので
はない。小さい子どもだったら,たくさんのことに興味をもって,いろんなことを
するかもしれない。しかし,普通の人間だったら,そういうたくさんのことに興味
を持ったら大変なのです。いろいろなものに興味を持たない方がいいのです。ただ,
「それが,人類学の歴史の中で重要だ」ということが分かったならば,それには関
心を持つ。その関心の持ち方を教えてくれるのが,自然科学であり,社会の科学で
あり,数学であると,最近,そういうように感じております。
 そういうふうに考えると,「この本には,ついついうっかりすると科学者になり
たくなってしまうような話があります。お母さんが,
あなたを科学者にしたくない
と思っているようなら,この本はお母さんに見せないようにして,こっそりと読み
ましょう」と言うような序文があると,子どもは読むかもしれないです(笑い)。
 今,言ったようなことは,内容的には急に思いついたことではないですけれど,
「読物と説明文とは違う」ということについては,今まで,はっきりとは気がついて
いなかったことなのです。
 じゃあ,読物を書くにはどうしたらいいか。これは大変なのです。「何に子ども
が興味を持つのか,何が,子どもの意欲を引き起こすのか」が分からない。それを
探すのに,何年もかかるのです。

      2004.8.1
    テープ起こし・編集  原田 研一 (一部修正 西村寿雄) 
   (原田研一さんのご了解を得て掲載させていただきました。
   仮説実験授業研究会外での引用不可です。 西村寿雄)


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