科学読物研究は理科教育への挑戦!
                     板 倉 聖 宣                         
 
科学読物論確立は今までの理科教育を全滅させること
 
 科学読物研究といったものを考えるときに、一番原点というか、心がけると
いいと思うことは、日本の科学教育とか理科教育の伝統というのは、反科学読
み物ということです。科学読物論を確立するということは今までの理科教育を
全滅させることなのです。つまり、今までの理科教育では、読み物を読むこと
はいけないことだとみられていた。日本の理科教育の伝統はなんとなく読み物
を排除してきました。
 文学教育では本を読むことが当たり前です。社会科も読み物を読むことは当
たり前かもしれませんが、だいたい読み物がないのです。しかし、自然科学は
読み物があるにもかかわらず「読み物を読むことはけしからんのである」とい
うことが言われてきた。それにもかかわらず、少しずつ裏切り者が現れて読む
ことが大事だと思う人もいたわけです。日本の理科教育史の中で読み物が大事
だと言った人はいないわけではないけれど、しかし、圧倒的に小数です。その
ことをはっきり自覚しておくことが一番大事なのです。
 科学読物を無視するという形で、これまでの理科教育なり科学教育は行われ
ていました。そのことの矛盾に多くの人は気がつかないのです。一方では、科
学というのは読むこととは違うといいながら、一方では科学読物が大事だと言
う人はいくらでもいます。今迄、学校で科学読物を使っているのは、放課後、
しかたがない、実験が出来ない、先生がいない、器具がない、仕方がないから
代用物として読み物があってもいいかな、という補完物としてあったのです。
本当は学校では実験をすべきなのだが、実験しないですまされていた。
 
科学は文学でもある
 
 しかし、ぼくの考えでは、科学というものは広く言うと文学だということです。
すべてのものは実学と虚学であると言われている。虚学と実学というのは、虚
と実という考え方で文学と文学でないものとに分けられる。すると、科学も文
で書かれているから文学ととれる。
 例えば、歴史を学ぶ意義にはどういうことがあるかというと、「今」から
「過去」に飛躍することができることにある。つまり今の19○○年という近
くでつき合うというのではなくて、今の人が1900年や、明治維新というい
ろんな時代の人間の見方でいろんなことを見る、そうするとはるかに重要なこ
とが見えてきたりする。
 科学は文学ではあり得ない、相対立すると言われるが、科学も文で書くので
文学と同じなのです。だからこそ、蘭学事始は文を読むことから始まったので
す。けっして、実験することら始まっていない。そういう点では科学というのは
思想なので、ヨーロッパでは科学はナチュラル・フィロソフィーなのです。文章
で書かれるものなのです。そのようなものを実験だけでやろうと思ってもでき
ないのです。文学がなかったら科学教育は成り立たないのです。
 
科学読物なしに科学教育は成り立たない
 ぼくは、科学読物なしに科学教育は成り立たないという強い立場です。だから
科学読物の仕事をしているときに時々母親に呼ばれて、「理科の授業がきらい
になっても、科学読物は好きでないとだめだ」と言われてきた。つまり、思想
としての科学が理解できるかどうかなんです。実際にはなかなかいい本がない
けれども、そのうちに科学読物のすばらしいものに会えると思えて辛抱が出来た。
 今までの理科教育で、なぜそんなにも読むことを離したかというと、一つは
学校でもあまり実験をやらなかったからです。無理にでも教科書から文章をは
ぎ取れば、実験をしなくては仕方がなくなる、それでも実験をやらない、教科
書を無味乾燥にして読まないようにしたって、なおかつみんなは文章を読んだ
のです。それだけ文は強いのです。 ぼくらが習った教科書なんて、ほんとに
「馬は首が一つあって、目が二つあって…」と、およそつまらない文章だった
のです。それでも、文章を読む方が場合によってはよかったです。これでもか
これでもかと、実験派がやったけれど彼らは勝利せず、読む理科がずっと続い
ていました。
            
                    (2000年3月 尼崎の会にて)       
 
 
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