科学読物における対話形式について
                      板 倉 聖 宣
 
 科学読物の研究には、古い本を調べて研究するのもいい。明治初期
の「マルセット夫人」の訳からはじめてもいい。子どもの本って対話
で書いていることが多い。そのほとんどは無意識に書いていると思う
のだけれど、結果的に特徴があって、お父さん、おじさん、おにいさん、
妹、弟などの人間がどういうタイプの人間かを見ると、著者の考え方
がわかる。
 対話形式が出てくるのは大正の時期か昭和の初めからあるが、出て
くるのはほとんど男性で、教えるのは男の先生か、おとうさんか、お
じさんです。それが、明治の初めの『究理易知録』ではおばさんが出
てきて子どもたちに話を聞かせる形になっている。しかも、聞いてい
る子どもも全部女の子で易しく書かれている。著者は「女性も科学を
しなければ」というかまえをもっていた。女性が出てくる読物はこの
時期に数冊あったが、その後、戦後の本にも女性だけが出てくる本は
ない。(参照・『日本初めての科学読物』)
 
・最近、岩波なども、対話形式の本をたくさん出していますが。
 対話形式はなかなか進歩していない。出てくる子どもがみんなわか
り良すぎて、質問するとすぐにわかってしまう。そういう展開だけを
見ても、「マルセット夫人」の本はいい。
 対話形式では啓蒙主義になりがちで、ヨーロッパではプラトンがあり、
ガリレオがある。プラトンの場合は先生と生徒がいて、生徒は先生に
やりこめられて、おもしろいのはおもしろいが、教える立場と教わる
立場がいる。ガリレオの「天文対話」の場合は、登場者が4人いる。
ガリレオ代弁の人と、ガリレオびいきの人と、ガリレオに反対の人と、
中間派の人といて、常にガリレオが勝って、ガリレオに反対する人は
負けることになっている。それでガリレオの言いたいことが貫かれて
いる。それが、ガリレオが宗教裁判にかけられる原因になった。法王
の言った言葉が間違っていることになったりする。
 ふつうの対話形式や授業記録で、AとかBとかでは個性がない。仮
説実験授業の記録には名前が出ていて個性がある。個性がない方がい
いという人もいるが、個性のある方がはるかにいい。「小原さんのク
ラスの〇〇くんはどうしている」などと言える。
 ぼくの『ぼくらはガリレオ』という本では、出てくる名前をみても
個性がわかる。『ぼくらはガリレオ』では、ぼく自身が個性を初めに
設定して、だれがどういうことを言うかあらかじめ決めていた。しかし、
結果的には、だれがかっこいいかがわからないようになった。『ぼく
らはガリレオ』に出てくる人物は、秀才でなんでもよく覚えていてよ
く勉強している秀男くんと、ものを作ったりすることの得意な工作く
んと、女の子で理知的な理香さんと、女の子で理屈はどうだっていい
美しければいいと考える恵美子さんと、はっきりと配役を決めいていた。
ぼくは、理香さんをかっこよくするつもりだった。工作くんもかっこ
よくして、秀男くんを主役にしようとしたけれど、結果的には、秀男
くんもかっこよくて、恵美子さんもかっこよくなった。恵美子さん、
自分は考えるのは省略するけれど、ほかの連中に考えさせたりして一
番かっこよくなった。
                 
                   (2000,2 仮説社にて・西村)
 
 
 

                             ◆本文は「科学読物研究」2号に掲載

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