◆科学と学問とサイエンス
英語のサイエンスという言葉は学問でもあるのです。幕末から明治の初めに日本に
入った来た時に、科学というのはサイエンスというよりもむしろ「ナチュラル・フィロソフィー」
です。直訳すると自然哲学ということです。しかし、これが困ったことに、実は日本で哲学と
いうとドイツ観念論のことでした。ですから、明治以後ずっと敗戦前後までは、哲学と言えば
思弁的なもの、科学と対立するものというイメージがありますから、科学を自然哲学と言えな
かったのです。そこで、究理学と訳したのです。 その後、究理学という言葉が滅んだのはいろんな理由があります。日本で究理学という
と江戸幕府では明らかに西洋学のことでありましたが、その後中国の朱子学が孔子のの教 えた儒学れで、宋の時代にはやった学問があります。これが江戸時代の正当の学問ですが、 その学問と区別するために究理という言葉を使ったことがあるのです。ですから、偉い大先 生は学問といえば朱子学のことだと思ってしまいました。でも、大衆はだれもそうは思わな くて偉い人だけが思ってしまっただけでした。 化学とか生物学などはもとは科学ではありませんでした。しかし、やがてそういう人達も、
ケミカル・フィロソフィー、ボタニカル・フィロソフィーと言いました。つまり、知識の集積でし
かなかった学問がフィロソフィーになる、つまり自然観になったということで誇らしくなり ドールトンの本がケミカル・フィロソフィーと言いました。ダーウィンによって進化論が唱え
られましたが、これもボタニカル・フィロソフィーという学問になりました。いずれも、自然観
を持たなければならないということでフィロソフィーが大事にされたのです。 ですから、厳密に言うと自然に関する本は、そこにフィロソフィカルな雰囲気が含まれてい
ないと伝統的な科学に入りません。「これはタンポポです」「これはキクです」というたんな
る知識はこれは博物学です。ボタニカルサイエンスの扱うことではありません。
◆「科学読み物」というと
科学読み物には、技術や数学や社会に関することは入れないのが普通ですが、これまでの社
会の科学は自然科学のような科学の水準に達していないというので、科学には入れないのが当
然であります。しかし、社会の科学についても確かな科学ができてきましたので、それらも科
学読み物に入ります。「子どもの経済学」というものもありますが、本来ならこれは科学読み
物に入ります。
自然観察の本も今言った理由でふつうは科学読み物に入らないのです。しかし、いずれにし
ても見方考え方を教えるということになると、これは哲学に近くなってきます。そういうもの
は科学です。図鑑とか手品とかパズルとかの本はだれでもわかります。子どもは図鑑が大好き
だったりします。手品の本などもパズルの本も見方考え方を入れれば科学になります。
図鑑の本がいいのは、おしつけが入らないからです。読み物でないから、おしつけが入らない。
だから、安心して読めるのです。自分自身で読み物を作っていけます。そういう点で、へたな
読み物よりもこういう素材だけの方がいいのです。そういうふうに考えると、科学読み物を勧
めるという立場で考えても、図鑑や資料集のようなものはずっといいのかも知れません。
もの作りも科学ではないですけれど、作っているうちにいろんなことが気が付きます。
◆科学読み物と理科教育
ここで大学生が前世、つまり生まれる前は馬だったとか死後の世界を信ずるかです。「前世
や生まれ変わりを信ずる」という大学生はどれぐらいと思いますか。
実は、調査の結果「信じる」という人は18%、「ありうると思う」人は58%になってい
ます。これが現在の理科教育の成果です。「自分が死んだらどこかに行くんだ」という人は
15%、36%います。
こういうことは実験観察をしたらわかるかというと、それではわかるはずがないのです。実
験観察がうまくいっても、前世の実験したり死後の世界の実験したりした人はいないのです。
実験したと称する人が最近現れたりして、またおかしくなっていますが、実験など出来ないの
です。理科教育がたとえ成功したとしても、実験観察の教育がたとえ成功したとしてもこれは
わかることはないのです。
このような教育は、読むことを通じて、思索することを通じて初めてできることです。
◆「科学」という教科
科学教育を本当にするのだったら、理科という教科の他に科学という教科を作って科学的な
考え方を教えればいいのです。仮説実験授業をわたしが提唱しているのは読み物、思索もこめ
たものです。仮説実験授業では、予想を持って問いかけるのが大事だということをしていますが
実験する前に予想します。
普通の観察実験ではただ教科書に書いてある通りにすればいいということで、答えを覚える
ことになっています。覚えるのに実験観察すると一番覚えやすいということになっていますが
これはだめです。実験観察をすると不思議なことが起こります。水の沸騰点は何度かという時に
実験観察しないと100度と思いますけれど、実験観察すると沸騰点は96度とか102度と
かなります。優等生の中には「100度となっていますが本当は96度です」とかいうように
慎重に答えます。それが確かです。96度というのが本当なのです。「水の沸点は100度」
というのは定義なのです。定義では100度でないのはおかしいのですが、実験では96度な
のです。そういう人が、仮説実験授業をすると手抜きをして、すべての実験をやらないです。
仮説実験授業の仕様を見て「すべての実験をする」というのを知ってびっくりした人もいます。
仮説実験授業は実験観察を大事にしないと思われたりしますが、そうではありません。
一番実験観察に熱心なのです。
◆書評の善し悪し
悪い本も役に立ちます。しかし、だがしかし、だがしかしの論理でいうと、Aだがしかし
Bです。
例えば、「この本はいい本です。しかし、○○の欠陥があります。」という紹介があったと
します。書評をする人は著者よりも上だということを言いたい人が多いので必ず欠点を見つけ
ます。書評をする人が大モノであればこういうことは書きません。しかし、小モノであればあ
らを探します。「こういう欠点があります。…」という書評を見たら、この本はいい本なので
しょうか。悪い本なのでしょうか。
だいたい日本人は悪い本だとします。 しかし、総合判定をしなければなりません。「Aだ
がB」という時のAというのは初めの印象ですからいい本のはずです。「だがしかし、こういう欠陥 があってもなおかついい本です。」と書いてくれれば読む気がします。日本語は後ろが決定的
になるのでいけないのです。英語では前が決定的ですが、日本語は後ろが決定的になってしま
います。ですから、しかし、だがしかし、けれども、ということがあっても、なおかつその本
はいい本です。
けつきょくどういう本がいいのか、科学読み物に限定していえば、子どもが科学の本を探し
て読もうと思える、一つの本を読んで、次にまた探してまで読もうとする読書姿勢ができれば
いい本です。
◆科学の本の読み方、読ませ方
科学の本の読み方としては、悪い本がたくさんあるということを承知の上で読むことです。
科学読み物を選ぶ一番の道は、科学読み物の大部分はふつうの人にとって悪い本だということ
の発見にあります。そして、「多くは悪い本だとしても、少しはいい本があるのだ」とすると
探す気になります。本を読んだことのない人、或いは、本は読んでも探したことのない人、研
究的読書をしようとか探して読もうとしたことのない人、本を読み慣れていない人は、本屋に
行くと圧倒されてしまいます。 「こんなに本があるの。」 「大変だよ、あんなにもの本を苦労
して読まなくてはならないの。」となります。もう、そういう人は本を読みません。わたしなどは、 研究するために、このことを調べたい、このことを書いた本を探したいと思ってもなかったりします。 探してもなかったら自分で研究することになります。 夏休みの宿題で科学の本を読ませます。そして、感想を書かせます。感想を書かせるからき
らいになるのです。感想を書かせるとだいたい、すべての感想文は「この科学の本はいい本で
した。」「ためになりました。」「勉強になりました。」と、書きます。でも、一冊読んで「悪い
本でした」と書ける人はいないのです。いやいやながら読んだ本は、せめて「良かった」と書
かなかったら自分がないです。自分の出た学校はみんないい学校なのです。3年も4年も行っ
たのですから。でも、もっといい学校に行ったら悪口が言えます。転校して、今度の学校は良
かったとか悪かったとか、相対評価ができます。そういうことでわたしの科学読み物の読み方
読ませ方というのは、普通の人と違います。
◆科学読み物の盛衰と国策
ノモンハン事件がが起こります。ノモンハン事件は、日本の新聞に出なかった事件です。
新聞に出なかった事件で何が大事かというとノモンハン事件が起こったから満州でソ連軍と日
本の軍隊が小競り合いをしました。そして、日本軍が惨敗をするのです。日本軍は向こうの機
械化部隊に負ける、負けてもなおかつ戦うのです。現地指導部は戦ったら負ける、部下を殺す
だけだというのに、現地にいない司令官は戦え、戦えと命令して惨敗するのです。
物質主義のソ連が日本に圧倒的に勝つわけです。国民精神を鼓舞したら戦争に勝てるという
のはうそだと分かってしまいます。だから、この事件のことをよく知れば知るほど、科学が大事
だとかわかって、政府上部はすぐに科学振興を始めるのです。戦争のためです。科学読み物 を振興させて、戦争に備えなさいということになります。
こういうブームが起こるときにブームの内容を規定するのは何かというと、売れない時代に
いい本が出て、その本の内容がその後にすごく影響を与えます。究理熱のモデルを作ったのは、
明治元年に出た福沢諭吉の本です。ブームの中で書いたのではないです。ブームの前に書いた
のです。そして、ブームになった時に今はこの本作ると売れると思って作ったりします。だから
ブームになる前の本がいい本です。ブームになった時はあわててブームに乗ろうとして書くの
ですから、半分は流行的です。流行的でない時代に流行的なものをつくる、そういう本をわた
したちは作りたい。ある種の流行のキーワードがぬけてたりします。戦争のための科学、不況
に強い科学などあります。
◆この講演の全記録は「科学読物研究」第6号に収録
申し込みは西村(ja3aeh@cc-net.or.jp)まで |