板倉聖宣講演
   「科学読み物を研究するとはどういうことか」抄)
       
ー「科学の本」学確立に向けてー
             全文は「科学読物研究」第16号に収録
                          2002年11月3日  東京・総評会館
 
◇「科学の本」学はまったくできていない

・「科学の本」の著者たちは,すでに出版された「科学の本」を調べずに 書いている一般に〈科学読み物〉というのは,読者を子どもに限ってはいません。〈子ども向けの科学の本〉と〈大人向けの科学の本〉とは連続的なのです。〈子ども向きの本〉とされている本だって,大人が読んでおもしろいものがあります。また,〈大人向きの本〉とされているものでも,子どもが読んでいいものがあります。
わたしは、大学の文科生を対象に自然科学概論だかの講義をしたことがあります。その時,夏休みの宿題だかを兼ねて,「子ども向きの科学の本を読みなさい」と強く推薦したことがあります。大人の本は「一般素人向きだ」と称していても,素人には読めないことが多く, 子ども向きの本のほうが,大学生や大人が読んでちょうどいいことが多いからです。
 
・先行研究を生かした研究
実は、去年から私は,少し前に私が中心で実施した〈サイエンスシアター〉でやった内容を本にまとめ始めました。特色のある本になっていると思いますが,その本には,とても詳しい研究・啓蒙年表を付してあります。「これで〈科学の啓蒙書学〉〈子どもの本学〉を確立するのだ」という意気込みでもって,これまで出版された主な啓蒙書は網羅的に挙げてあります。「子ども向け,大衆的な科学啓蒙書だって,だんだんと進歩しなければならないし,進歩できるのだ」と考えるからです。
専門家,たとえば物理学者が,子ども向きや大衆向きの力学の本を書くときには,その著者は「物理学,力学はよく知っている」と思っているので,「すでに出版されている啓蒙書にはどう書いてあるか,読むまでもない」と思っています。しかし,そういう著書たちだって,「子どもたち, 一般の大人たちへの分かりやすい説明の仕方,説得の仕方」まで十分に知っている,とは限りません。

・本を書く動機づけ
「ある本がいい本になるかならないか」ということは,その本の執筆動機によって,決まることが少なくない,と思います。「最近こんなことを調べて,とても楽しい思いをした。そして,その結果とても興味のある事実を発見した。これは,多くの人びとが興味をもつことに違いない。これまでの考え違いを直すのに有効に違いない」などと気付いて,科学読み物を書けば,それなりに大抵いい本ができると思います。「この本を書いて生活費の足しにしたい」とか「出世の足しにしたい」というのとは,まったく違うからです。そこで,科学の啓蒙書,科学読み物を書く場合には,とくにその動機づけを明らかにすることが大切だと思います。

・ガリレオの「落下の法則」への道
ガリレオは〈落下の法則〉を研究しましたが,彼はもっと一般的な運動の法則を知りたかったのです。しかし彼は「〈運動一般の法則〉を一度に発見するのは難しい」と気がつきました。〈落下運動の法則〉だって難しいです。いくらよく見ていても,アッという間に落ちてしまいますからね。そこでガリレオはまず,〈もっとゆっくり落ちる現象〉を研究しようと考えました。そして,細長いガラスの入れ物に水を入れて,〈密度が水より大きいもの〉や〈密度が水より少し小さいもの〉を落としてみて,その運動の法則を発見しようとしています。「浮沈子」というのがありますが, あれはとってもゆっくりと落ちたり上昇したりするでしょ。そういう遅い運動なら,その法則が発見できそうだと思ったわけです。賢いやり方です。

・ファーブルの研究動機
科学の読み物で一番工夫しなければならないのは,〈なぜこんな実験や観察をするのか〉ということだと思います。
日本人の大部分はファーブルが好きです。しかし,わたしはあまり好きではありませんでした。「ファーブルはなぜこんなくだらないことを熱心に観察するのか,呆れていた」と言っていいのです。わたしは〈ものを作る職人〉の子で,貧しかったこともあって,何よりも生産が大事でした。そこで,生産とはまるで関係のないようなことをファーブルが研究するのが理解できなかったのです。そうとうな暇人でなければああいう観察にはつきあえないです。

・小学校の教材と動機
そういえば,昔から小学校の植物教材というのは,だいたいおじいちゃんの趣味になっています。アサガオ、サクラ、キクなど,おじいちゃん,おばあちゃんが興味をもつものばかりが並んでいました。私は東京の真ん中の小学校を卒業したのですが,ドーナツ現象のため過疎になって,数年前に廃校になりましたが、廃校寸前にその学校に行ってびっくりしました。PTAのおじいちゃん,おばあちゃんが応援して,小学1〜2年生に立派な鉢のキク作りさせているのです。

・「よく知っているからうまく教えることができる」とは言えない
よく誤解する人がいますが、「自分は日本語がしゃべれる。だから、外国人に日本語を教えられる」と思う人がたくさんいます。もちろん,日本人は自分の子どもに日本語を教えられます。アメリカ人は英語を教えられます。それは, 子どもたちに,それを学びたい旺盛な知識欲があるからです。圧倒的な学習意欲があるからです。そういう場合には,答えを知っておればいい。教える側には正しい知識がありさえすればいいのです。こちらは「あれはネコだよ」「あれは犬だよ」という答えを知っておればいい。生まれてから小学校の1,2年生ぐらいまでは, 本人自身に旺盛な好奇心, 知りたい動機があるから教えられるのです。しかし,自分の子どもには日本語を教えることができたからといって,アメリカの中学生に日本語を効果的に教えることができるかというと極めて困難です。少しぐらい学習意欲があっても,小さな子どもにはかなわないからです。

・研究の動機
ずっと前に,貝類が専門の学者が子ども向けの科学読み物を書きました。そこで,出版社は,その宣伝文に「この本には著者がどのようにして貝の研究をするようになったか,その動機が詳しく書いてある」と書きました。ところが,その本を手にして,どこにその動機が書いてあるか,知ろうとしても見つからなかったことがあります。それでは,その学者はどうして,貝を研究するようになったのでしょうか。じつは,大学の卒業研究の時に「君は貝を研究するといい」と言われて研究したんです。30年ぐらい前のことです。今の科学者はほとんどそうです。文科系はそうではありませんが, 理科系は先生がテーマを与えて研究するのかあたりまえになっているのです。たいていの学生は,先生に教わらないと何を研究していいかわからないからです。
 
・『子供の科学』の変化
『子供の科学』という雑誌は今もありますが, 今の子どもは読めますか。あれを読む子どもはおかしな子どもです。子どもの頃から読み始めて, 今は20才とか30才とかいう人が読んでいます。だから, あの雑誌はどんどんどんどん難しくなります。あるいは博物学的な知識の本になっていきます。

・わたしと「科学の本」
わたしは子どもの頃から,文科系の本はいっさい読みませんでした。『小公子』とか『小公女』とかは,子どものころから書名を知っていましたが,「気味が悪い」ように思えて,とうてい読む気がしなかったのです。それで, 科学ものばかり読んでいたのです。と言っても,科学の本でも,前のほうをホンノ少し読んだだけで読めなくなりました。たいていの本は,もっともよく読んだ場合でも,最初から1/3ぐらいまでで,ふつうは3〜5ページくらいしか読めませんでした。しかし,私はなんとなく科学に憧れていたので,科学の本を古本で買い集めました。

・「科学の本」学の先駆者に
子どもの科学の本は,なかなか進歩しないのです。なぜでしょうか。「既に出ている本を読んで,それを参考に少しでもいい本を書くようにすればいいのに」と思うのに,これまで出版された本を本気で参考にしようとしないからだと思います。前に出た子どもの本だって,バカにしないでほしいのです。昔の本の方がいいのがあります。外国の本だけは進歩しています。翻訳本で盗作のものもありますが,無いよりはましな本もあります。
みなさんには, ぜひ, 科学の本の先駆者になってほしいと思います。科学の本でいい本を書くには,「@その科学についてよく知っていることと,A子どもについてよく知っていること,さらにB子どもと科学のつなぎ方をよく知っていること」が大切です。科学を子どもに教えたことのある人でも,自分の体験だけではだめです。仮説が立ちません。「こういうふうに教えたらどうなるか,ああいうふうに教えたらどうなるか」──そういうふうに考えて書くと,必ず先駆者になると思います。

・堀七蔵と神戸伊三郎
わたしより2世代か3世代上の人に堀七蔵と神戸伊三郎という人がいました。この二人はまったく同世代の人で,二人とも1886年=明治20年生れです。
堀七蔵という人はすごくたくさんの本を書いています。しかもみんな相当厚い本です。神戸伊三郎さんも,それに負けないぐらいたくさんの本を書いています。この二人は明らかにライバル関係にありました。堀七蔵さんは東京女子高等師範学校の教授で,神戸伊三郎さんは奈良女子高等師範学校の教授でした。堀さんはもともと物理・化学系,神戸さんはもともと博物学系の人ですが,二人とも理科教授法が専門と言っていい人でした。ところが,堀さんは文部省の国定理科書の編纂に関係した人で, 文部省側の人ですが,神戸伊三郎さんは野党的な人でした。そういう対照的な人が,理科教授法の本と子ども向きの本の両方をたくさん書いていたのです。
 
・子ども自身による評価を確立するには
一口に子どもと言ってもいろんな子どもがいます。科学にとてもくわしい子どももいます。そういう子どもも大事だし,普通の子ども大事です。科学読み物を書くには,科学知識がある人と,知識が不足しているけれども好奇心のある人と協同作業するのがいいようです。

・子どもの本の評価
大人が子どもの本を評価しても,子どもの評価とほとんど同じ場合があります。大人と言えども,専門家でなければ学力はほとんど子どもと同じです。
大学の物理学科を出ている人が子どもの本を読んで,「物理のことは知ってるから興味を持てない」というような場合,その本はいい本とは言えないと思います。物理学科を出ていても,「この本, 新鮮でいいこと書いてある」とか「これはすごい」と思えるのが,子どもにとってもいい本です。けっして,子どもをバカにしてはいけません。

・言葉と概念
それから、子どもの本で気をつけなければならないことが二三あります。大人はわかるのに子どもはわかりにくいというのがあります。どういうことで飛躍しているか,というと,こういうことです。
例えば,こういう文があります。「水のようなものを液体という」──これでいいでしょうか。これはだめです。「液体」という概念を知っている人は,もちろんこれで大丈夫ですが,「液体」という概念を知らない人にはだめです。もともと,「ような」というのは「これと,これと,これ」というようにいくつかの例があることが前提になっている言葉です。「水のようなもの」と言いますが,水銀は液体でしょうか。ふつうは「水銀も液体だよ」と教えないので,水のように透明で,水と同じくらいの密度のものだけを「液体」と思ってしまうのです。

・日本語と文章
日本人は,一般に長い文章は苦手のようです。最近やっとわかってきた気がするのですが,これで日本の科学もアメリカに差をつけられるなと思います。ヨーロッパ人はかなり長い文章でも,いやがらずに読みます。それは〈字の大小〉の違いでなく,〈日本語の構造〉がヨーロッパの言葉と違うからだと思うのです。
今から30〜50年ほど前には,「日本語はヨーロッパの言語よりも劣っている」という議論がたくさんありました。アメリカ文化大好きな連中の中には,そう言っていた人がたくさんいたのです。しかし,日本が経済成長したらとたんに,そういう議論がなくなりました。たしかに,日常会話とかふつうの文章の場合には,日本語もアメリカ語もほとんど変わらないと思います。けれども,明治以後,西洋から〈関係代名詞〉が入ってきて,日本語も複雑化してきて,そういう文章はかなり理解しにくくなったと思います。敗戦前までは,関係代名詞というのは「○○するところの何とか」というように「するところ」と訳すのがふつうだったのですが,最近はそういういかにも翻訳調の文章がなくなった代わりに分かりにくくなったと思うのです。

・〈マトメ符〉の効用
 そういうときには,私は,その文章の中に〈=マ符, とか 〉=トメ符,合わせて〈マトメ符〉を書き込みながら読むのですが,この場合,私は,
 「〈日本の高校や大学で学ぶ物理〉は,英語でいえば文法である。英語では,〈読み,書き,聞き,話す能力,つまり,コミュニケション能力〉がなによりも重要である。物理でも,〈文法そのもの〉より,〈自然とのコミュニケーション能力〉が重要なのである。/〈実験結果や観察したことの,法則や仮説に基づく解釈〉などは,自然とのコミュニケーションの例である。〈自然とのコミュニケーション〉には〈物理学の法則や基本的な現象の知識〉がある程度は必要だが,それよりも〈それらを活用する物理的な考え方,つまり物理の知恵を身につけること〉が必要である。〈このような観点からこの本を執筆した〉が,読者の方々に満足していただけただろうか」
 と,マトメ符号をおぎなって,やっとスルスルと理解できるようになったのです。
 
・「文章題」も言葉の問題
 日本の子どもたちは,「計算は出来るが文章題が出来ない」というのは,昔から有名な話です。それでは,「なぜ計算ができても文章題が出来ないのか」というと,問題文が読めないからだ」ということになっています。数学教育を改革するには,国語の改革をすることが必要になっいるというわけです。科学読み物を分かりやすい文章で書くには,言葉の問題にも十分な注意を払う必要があるわけです。言語の教育をちゃんとしないと科学書も読めない。言語の教育だけではだめなんです。

・「科学の本」の著者たちは,すでに出版された「科学の本」を調べずに 書いている
一般に〈科学読み物〉というのは,読者を子どもに限ってはいません。〈子ども向けの科学の本〉と〈大人向けの科学の本〉とは連続的なのです。〈子ども向きの本〉とされている本だって,大人が読んでおもしろいものがあります。また,〈大人向きの本〉とされているものでも,子どもが読んでいいものがあります。
わたしは、大学の文科生を対象に自然科学概論だかの講義をしたことがあります。その時,夏休みの宿題だかを兼ねて,「子ども向きの科学の本を読みなさい」と強く推薦したことがあります。大人の本は「一般素人向きだ」と称していても,素人には読めないことが多く, 子ども向きの本のほうが,大学生や大人が読んでちょうどいいことが多いからです。
ところで,これまですでに,〈子ども向き,あるいは大衆向きの科学の本〉はたくさん出ていますが,〈科学の本〉学といったものはできているとは言えません。科学と限らず子どもの本に関する研究会は,いくつも出来ていますが,それらの研究会も,その権威を主張できるような状況にはなっておりません。
 

・子どもに科学の本を薦めるには
ところで,子どもたちに科学の本を読んでの感想文を書いてもらうときには,〈一冊の本だけを読んでもらって,その本の感想文を書いてもらったのでは、本当の感想を書いてもらえないことが少なくない〉ということに注意しておきたいと思います。科学の本を読んだことの少ない子どもたちは,一冊の本を読みおえたら,その本がかなり面白くない本でも,「面白くなかった」とは言いたくなくなるのです。自分がかわいそうだからです。面白くなくても,自分が読んだ以上,その本がよくない本だと思いたくなくなるのです。しかし,二冊以上の科学の本を読んで,その二冊の本の感想を書いてもらうと,相対的に面白くないと思えた本は,安心して「面白くなかった」と書くことができるようになるのです。いくら面白くない本でも,科学の本というのはこのくらい面白くなくても,科学の本とはそういうものなんだと思ってしまうのです。

・読むだけの授業
科学の本は比較して読むことが大事ですが,日本の理科教育は,伝統的に「実験・観察だけが理科教育の神髄だ」という考えをもってきたので,科学の本を読ませる授業はいつも虐待されてきました。でも〈実験観察〉だけが理科ではないのです。理科の授業にも,「ずっと読むだけの授業があっていい」と思います。仮説実験授業では授業中に討論がすごく活発になったりするんですが,それでも,「科学読み物のほうが好きだ」という子どもがたくさんいます。科学読み物は科学者の認識の成果を凝縮したものになっているのです。子どもたちは,そこに一番感動するのです。
わたしが『ジャガイモの花と実』(福音館書店) の原稿を書き上げたばかりで,本が出版される前に,暁星小学校の吉村七郎先生は,なんと2時間も続けて,その原稿をもくもくと読んでくれたことがあります。それでも子どもたちは喜んでくれるのです。私自身の経験でも,国語読本の授業で,「太陽」の話なんかは,読むだけで楽しかったことを覚えています。おそらくは,「読むだけの社会科の授業」や「読むだけの理科の授業」があっても,いいと思います。 昔から「読書会」というのがありますが,たいていはうまくいきません。「読書会」では,感想を言いあうことを中心にしているからだと思います。そんな感想よりも,みんなで一緒に声を出して読んで,ときどきそのとき思ったことを口にするようにしたほうがいいと思うのです。
                                                        以上
 
   ◆以上の講演録は、各項目について半分以下の抜粋です。
     この講演の全記録は「科学読物研究」16号に収録しています。

                                テープ起こし・編集  西村寿雄
             「科学読物研究」申し込みは西村寿雄(ja3aeh@cc-net.or.jp)まで

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