「読むことの教育」の復権を
 
 
                   国立教育研究所 板倉聖宣
 
 書物の普及と教育の始まり
 
 文字の発明・印刷の発明は,人類の文化にとって決定的な意味を
もっています。人類は,言葉の発明によってお互いの情報や意思を
伝え合うことが出来るようになりましたが,言葉は人間の記憶力に
ょってしか保存することが出来ません。しかし,文字が発明され書
物が保存されるようになって,人間はその文化を末代にまで伝える
ことが出来るようになりました。人々が初めて文字を発明し書物を
読むようになったとき,それまでの記憶の名人たちは,それを「人
間の堕落,文化の退廃」といって嘆いたことでしょうが,本当の人
間らしい文化は文字と書物とによって栄えるようになったのです。
 もっとも,はじめのうちは,その文字をあやつり書物を読み書き
できる人々の数はこく限られたものでした。こく一部の人たちだけ
が,文字を読ゐ書きすることによって支配階級の一部に加わること
ができたのです。ですから,文字を覚えることは出世の早道でし
た。そこで,子どもたちに文字を教え書物を読むことを教えること
は,子どもの社会的地位を守り上昇させる上でとても大切なことで
した。
 文字が生まれ書物が出現することによって,言葉も大きな飛躍を
とげました。書物の出現によって複雑な事柄を書き記したり論ずる
ことが出来るようになりました。そこで,日常の話し言葉には不要
だが複雑な事柄・微妙な概念を表現するために必要な沢山の言葉・
概念が生まれ,複雑な言い回しや文法が生まれるようになったので
しょう。そして,そういう複雑な事柄を表現できる言葉と文字・書
物を自由にあやつれる人間は文化的特権階級となりました。
 何時の時代にも,特権階級の多くの人々は自己の特権を維持しよ
うと努力します。一度複雑な文字や言い回しを覚えてしまった人々
は,言葉や文字や表記法をもっと便利にする工夫に反対します。し
かし,文化を少しでも大衆化しようとした人々,教育にたずさわる
人々は必ずしもそうではありませんでした。教育者は一方では文化
的特権階級の一部であって,特権階級の威厳を示すためにも「毅然
とした教育」を守って,その文化的特権の魅力を維持しようと努め
ました。しかし,教育者は一方ではまた生徒の味方でもあって,「覚
えやすい教育」を目指して平易な文字・言い回し・文章を開発しよ
うと努力しました。そしてその結果として片仮名や平仮名が発明さ
れ,五十音の法則や文法なども発見されるようになったのです。
 
 「読書百編, 意おのずから通ず」の教育的意義
 
 文字が発明され,書物が生まれ,印刷術が確立すると,読み書き
の教育が大事になりました。そして,読み書きの教育が普及すると
出版企業が発達し,さらに科学や文学が発達することになり,読む
ことの教育の重要性がますます重要なものになってきました。
 だから昔は,学校というところは読み書きを教えるところでした。
ヨーロッパでも日本でも,特権階級の子弟は自国語のほかに古典語
−つまりヨーロッバではギリシャ語やラテン語,日本では漢文を
学びました。それらの古典語を知っていることが特権階級であるこ
との証でもあったからですが,それらの古典語を学ぷことによって
初めて深い思想や知識に触れることが出来たことも確かでした。
 近代的な学校制度が発足したとき,古典語オンリーの教育は「旧
式の教育」として非難されましたが,多くの人々は古典語を大事に
して学び続けました。日本では明治以後近代的な教育が始まり,漢
文教育が縮小されましたが,明治年間の小中学生の多くは学校から
帰ると漢学塾に通って漢文の勉強を続けていたのです。「漢文がす
らすら読めないようでは満足な文化人・知識人になれない」と考え
られていたからです。
 漢学塾の教育は旧態依然たるもので,「読書百遍,意自ずから通
ず」といったものでしたが,それでも人々はそれを学んだのです。
近代教育学は,そのような教育を「教材の系統牲や生徒の自発性を
無視したばかげた教育だ」として,激しく攻撃しましたが,人々は
そのような教育を捨て去ることはなかったのです。どうしてでしょ
うか。
 それは,「そのような旧式な教育もけっこう成果を挙げていたか
らだ」と私は思っています。「読書百遍,意自ずから通ず」という
教育でも,そこで読む書物の中に重要な真理が含まれているような
ものなら,「生徒本位」と称して生徒を自由放任するよりもずっと
成果をあげうるからです。「文章を暗記しただけでは,それは生き
た知識にはならない」というのは確かです。しかし,読書を百遍も
続けていれば,そのうちにその書物に書かれているような重大な真
理の実際例ともいうぺき事柄を体験することも出てくるからです。
そこで,「ああ,あれはこういうことだったのか」と合点がいくよ
うにもなるからです。読書してただ覚えこんでいただけでは何の意
味もなくても, そういう知識は時を得て教訓として生きることがあ
るのです。
 ですから,読むだけの教育も馬鹿にはできないのです。思いかえ
して見ると, 私自身の受けた教育もそうでした。私は「学校で先生
に教わってとてもよく納得できた」というようなことはあまり覚え
ていませんが, 学校でよく分からない話を教わって,何となく残っ
ていた知識をあるとき「ああ,あれはこういうことだったのか」と
感動的に思い起こしたことが何度もあります。たとえば,学校の理
科でカエデの実の話を聞いたときには大して印象もなかったのです
が, それから一年以上たってから偶然カエデの実を見つけて「ああ,
ほんとだ」と感激したことがあります。ですから,効果的でないよ
うに思える教育も結構役立っていることもあるわけです。
 近代教育学では, 「単なる詰め込ゐ教育は全く意味がない」とい
った100%否定の議論をするのが普通ですが,そんなことはないの
です。もしそうだとしたら,江戸時代の教育はまったく成果をあげ
ていないことになるではありませんか。しかし,だからといって私
は, 詰め込ゐ教育を推奨しているわけではありません。「単なる詰
め込ゐ教育が効果的な教育ではない」ということは確かなことだか
らです。
 
 独創性への固執よりも忠実に「読む」ことの重要性の発見
 
 科学というのは自然にあるものではなくて,人間が作りあげた文
化の一つです。私たちのまわりには,科学の発生以前から自然があ
りましたが, 昔の人々はその自然を科学的に理解することができま
せんでした。そこで, 明治以後日本でも先進諸国の自然科学の成果
に学んで本格的な科学教育をはじめようとしたのです。
 先進諸国の科学を学ぷには,自分自身で実験するよりも,まず欧
米の自然科学の本を読まなければなりません。「自然そのものは欧
米だけでなく日本にもあるのだから, 我々は自分自身の手で実験観
察して自らの科学を生み育てるぺきだ」という人も沢山ありました
が,実際にはそれらの人々はまったく成果を挙げられませんでした。
 自然を相手に自分で実験観察するといっても,どういう実験観察
をしたらいいのかまるで分からないからです。そこで,「やはり,
欧米の科学の本を読んで勉強しなけれはならない」ということにな
って,「少し読んでは自分自身で研究しようとしてはまた挫折」と
いうことを繰り返し,「とりあえずは全面的に模倣するよりほかな
い」という結論に達したのです。そこで,科学者といえば蘭学者,
つまりオランダ語を学ぷ人,蘭学者といえば科学者ということにな
ったのです。日本の発明発見物語でもっとも感動的な話は,「オラ
ンダ語の書物に書いてあることを実験的に確かめて,困難なオラン
ダ語を学んだ」という外国語学習事始めなのはそのためです。
 日本が明治維新以後急速に欧米諸国に追いつくことが出来たのは
そのためです。江戸時代の先覚者たちがそういう試行錯誤を繰り返
した結果,明治以後は国を挙げて全面的な模倣を始めることになっ
たというわけです。だから,自然科学を学ぶにしてもまず英語の勉
強から始めることになりました。いまでも大学の受験に英語が決定
的に重要とされているのはその名残というわけです。
 しかし,それはなにも「日本人は劣っていたから」とか「日本人
は模倣好きの民族だから」というわけではありません。ヨーロッバ
でも,近代文化はルネッサンスに始まりますが,ルネッサンスとい
うのはギリシャやローマの古典文化の模倣運動だったことを忘れて
はなりません。どこの民族も他の進んだ文化を模倣することによっ
てはじめて自分たちの固有の文化を築けるようになったのです。他
の国々の文化を模倣することだけが重要なことではありません。そ
れよりもまず自分たちの民族のすぐれた文化をうけつぐことが大切
です。そのためにはまず本を読ゐ,話を聞くことをしなけれはなら
ないのです。
      (略)
 
 それから,もう一つには,仮説実験授業の授業書には初めから
かなり長い読み物が入っていて,子どもたちに歓迎されていること
を知っているからです。そして,もう一つ付け足すと,仮説実験授
業を実施する教師の中に,「予想・討論・実験の楽しさばかりが気
になって,話を読むことの楽しさを見落とす人々が少なくない」こ
とが気になるからです。
 仮説実験授業やイメージ検証授業では,ほとんとどの授業書にも
読み物がはいっていますが, 授業書のなかにはその読み物が実験や
討論以上に重要な役割を果たすようになっているものがあります。
く花と実〉や〈30倍の世界〉などです。それらの授業でも活発な討
論が起きることもありますが,たいていの授業はひっそりしてい
て,一見感動がないようにも見えます。ところが,子どもたちの感
想を聞いて見ると,討論が活発だった授業よりも,そういう読み物
中心・観察中心の授業のほうがかえって印象に残っていることがあ
ることも分かっているのです。教師がそういう子どもたちの内面的
な状態をよく理解しないと,ただ賑やかな投業だけにあこがれるこ
とになってしまいます。そこで,改めて読む授業の重要牲を訴えた
いのです。
 それでは,仮説実験授業の授業書はどのように読めばよいのでし
ょうか。仮説実験授業の授業書は読み物の部分以外も,それを読み
進めることによlって授業を運営していくように作られているので,
その読み方によlつて授業の進めかたが変わってくるのです。実は近
頃,仮説実験授業の研究授業を参観して,二三注文を付けて置きた
いことが出てきました。そこで,その問題は項を改めて書かせてい
ただくこと1こします。
 
          『たのしい授業』1986年5月(No.39)号より
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