’08.03.29.〜 04.05.
中村哲之助議員の訪問記
*各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
ドブロブニクを訪問(4月 2日・午後)
 13:04長いバス移動で、やっとCR国南部の都市 ドブロブニク・ネレトバ県(以下、DN県)のDBVに到着。海岸には多くのクルーザーが停泊している。私達は早速、レストラン・PROTOで昼食。
メニューは名物のムール貝の酒蒸し、サラダなどで、美味しくいただいた。1時間程度で休憩をかねた昼食を終え、ガイドのMSカテリーナの案内でまず、県庁舎・市庁舎が併設されているDN県(写真の左半分が庁舎)を訪問した。


 ここでは、県No.2のイボ カラマティク副知事に挨拶。同副知事は多忙なため、互いの挨拶を終えて退出され、国際交流アドバイザーのイーダ ガムリン氏がDN県の概要説明と日本との交流を深めたいと述べられた。


  今回は特に、「日本の第二の都市であり、CR国の全人口の2倍もの人口を持つ大阪府の議員の訪問はこの上なく嬉しい。海外から時々議員がDN県を訪問するが、日本からは始めてだ。CR国とDN県のPRをぜひお願いしたい」と語られた。
 同氏は、CR国の人口は450万人で、全国を20県・1特別市に分割、DN県は16万人であると概要を述べた後、
  1. 今、CR国はEUへの加盟を進めるべく着々と準備を進めていて、そのために現在の〈20県+1市〉を、将来は3地区に分ける。

  2. DN県は管内に22の市町村を有する。内、都市と呼べるのは5で、他の17は日本でいう町村だ。また島々が無数にあり、交通対策はDN県にとって大きな課題である。
     今の最大課題は、DN県はCR国の最南端にあることから、北側から来る人は必ず、BH国のネウム(NEUM)を通らなければならないことだ。ユーゴスラビアからの分離独立後、他国となったため、BH国には当然検問所がある。そのため、ネウムの少し手前で、ペリェシャツ半島に橋をかけて、BH国で分断されず、国土が一体のものとなるようにしたい。

  3. しかし、これにはBH国側が難色を示しているようだが、CR国内で行うことなので、1日も早く完成したい。CR国は9,277ku(九州の1.5倍)で、DN県は全国土の12.4%を占める大きな地域で、海岸線は1,024qもある。橋は、DN県の悲願だ。

  4. DN県の産業の中心は観光だが、インフラ整備が遅れている。高速道路はZAGからSPLまでは開通しているが、DN県まで2〜3年のうちに延ばしてほしいと要請している。

  5. CR国は日本と漁業でつながっている。少し北部のサダルではマグロを日本へ大量に送っている。日本への輸出の90%はマグロだ。

  6. 日本は豊かな歴史と文化があり、すばらしい。企業活動の盛んになることを期待している。また、日本人は非常に細かな気をつかう民族だ。風邪をひいた時、他人に迷惑をかけないようにとマスクをすることでよくわかる。他人に迷惑をかけないのが日本人だ。また、私は黒澤明監督の作品が好きだ。

  7. 我々は、森・公園・池などの自然を大切にしている。世界遺産に指定されているこの地を守りぬきたい ‥等々と、述べられた。
 
 この後、議員団から、大阪府は880万人が暮らす町であることを説明するとともに、DN県を訪れる観光客の分類や特徴、最近の変化、経済活動などについての質問をした。
 これに答えられた後、DN県は、ZAGにある日本の大使館とも良好な関係を保っている。将来的には経済的な交流が進むように願っている。そのため、CR国の製品の品質を一層向上させたいと語られた。
 
 また、最後に同氏は、「我々も日本の大都市の議員が副知事と会って交流したと紹介したいので、議員側の撮影した写真をぜひ送ってほしい」と述べられた。(帰国後、同氏を通じて県副知事宛にメールでこの時の写真を届けた)
 15:40に終了し、全員で記念撮影をし、県庁を後にしたが、庁舎の周辺にも私達が聞いていたとおり、内戦時の激しい銃撃や空爆の跡を示す弾痕がまだかなり残っていた。
 
 次いで私達は、DBV市の観光協会を訪問することになっているが、担当のマヤ ミロビチッチさんが海岸にあるレストランを会場に指定。夕方までかなり時間があるので、ここでコーヒー・ジュースなどを飲みながら和やかに懇談した方が良いだろうと、セッティングされたようである。同氏はまた、私達からのあらかじめお願いしておいた調査項目のため、40ページ近い資料を作成して来られていた。改めて感謝申し上げる。

・応接者 DBV市観光協会PR担当 マヤ ミロビチッチ氏
・テーマ 観光都市としての具体的施策など

 4:05から始まった懇談は、まず議員団から「今日は夕方の基調な時間をとっていただいて恐縮している。先にお知らせしているように、大阪は観光客増の努力をしている。DBVは内戦の大変な傷跡から見事に復興され、観光客も急激に増えてきているようで、是非どんな努力をしてこられたのか聞きたい」と挨拶。
 ミロビチッチ氏は「DBVの取組みと概要を説明する」と、次のようなことを話された。
  1. CR国のGDP中22%は観光だ。そのためには観光客の誘致、とりわけ、DBVへ来てもらい易いようにする施策が必要だ。

  2. そのため、国内外の人達がお金を使い易いよう、あらゆるクレジットカードが使えるように努力した。などの質問を行った。

  3. CR国にはここ2〜3年前から、日本人は多く訪れるようになった。
       2006年  62,987人  延べ 96,850泊
       2007年  83,346人  延べ 127,319泊  と、約30%の増加になっている。

  4. 悩みは、人口49,928人の内、旧市街には約3,000人が住んでいるが、これは6〜7年前に比べると、400人以上の減少。若者は特に旧市街に住みたがらず、家を売って新市街地へ移っていく。

  5. 19世紀の後半から観光が大きな収入源となり、20世紀初めから第二次大戦頃にかけてホテルの建設ラッシュが続いた。しかし、内戦で大打撃を受けた。その後1997年には30のホテルで営業ができた。10年後の2007年には41ホテルで営業している。

  6. 宿泊施設の内訳、観光客の国別内訳、日本人の年別訪問数は略。

  7. 最近で残念なのは、大型クルーザー(豪華客船)でやって来る客が1年で30万人を下らないが、この人達は1人として宿泊しないことだ。このクルーザーが接岸すると乗客1人当たり接岸税2.5 ユーロ、ごみ・水補給などの経費8ユーロで収益が上がらない。地中海で船が接岸する港の順はバルセロナ、ヴェネチア、ジェノバ、チリタベキア、DBVとなっている。

  8. DBVでは季節毎の様々なイベント実施しや割引券の発行を行い、1人でも多くの観光客誘致をと頑張っている などである。
また、議員団からは、
  1. 内戦であれだけの被害を受けながら、どうして復興できたのか、またどんな順位をつけて復興を進めたのか。

  2. 難民がかなり出たと言われているが、どのようにその対策を講じたのか。

  3. ようやく復興し始めた時、コソボ紛争が生じ、空爆のため、また観光客の出足が止まったと聞くがどんな状況であったか。
などの質問を行った。私達のこれらの質問などに同氏は、
  1. DBVは91〜95年の内戦での被害が20億$にもなり、さらに難民が17,000人も出た。約5万人の人口中1/3にあたる17,000人が家を無くし、生活の手段を失ったことになる。

  2. そのため、政府とDN県、DBV市は当時のホテルの多くを難民を収容する「家」として提供し、その後5,575戸の倒壊した住宅の再建・修復に取組んだ。

  3. これに約2年を要したが、このことによってホテルが機能するようになった。難民があふれていては観光客も来ないし、その観光客を泊めるためのホテルも通常に機能しない程の被害を受けたため、当時の対策は適切だったと思う。

  4. 97年に多くの人達が元の家に戻り、30のホテルが機能を回復させたことから98年には観光客がかなり戻ってきた。

  5. しかし99年にコソボ紛争による空爆が行われ、また観光客はガタンと落ちてしまった。2000年になってやっと観光客が戻り出した。

  6. 91年からの内戦での空爆で67%の屋根が壊された。これをカテゴリー1〜6に分類し対応した。さらに96年までの間、米・英・スウェーデンなどの人道的活動団体が学校などの復旧に力を入れてくれた。

  7. しかし96年にストーンという町が地震で大被害を出した。まさに最近は苦難の連続だが、頑張って乗り越えてきた。

  8. CR国の観光局の事務所が日本に出来たので今後、多くの日本人が観光に来て欲しい。
などと熱心に説明された。
 その後、同氏と記念撮影を行い、終了した。もう17:40になっている。
 
 17:50バス乗車。ホテル(ドブロブニクプレジデント)へは約10分で到着する。ホテルに届いていた府庁控室からのFaxを2部コピーし、お互いに分けて読むことに。それぞれが18:10部屋へ行く。私の部屋は329号室。SPLのような部屋ではないが、ZAGよりはずっといいし、目の前に海が見えて広々としている。今日は長いバスでの移動だったこともあり、トランクを開き、スーツやカッターなどを吊るす。二連泊できるのはありがたい。
 18:50ホテル6F(7Fが正面玄関)のレストランへ。19:00からビュッフェスタイルの夕食予定であったが、宿泊客が少なく、セットメニューに変更させていただきたいとのホテル側の要請で魚料理に変更。スズキ(魚)とポテト、野菜サラダなどのメニューだが、なかなか美味しい。日本で食べるスズキに比べるとだいぶ小さい。ビールやワインなどをいただき20:10に終了し、各部屋へ。私が部屋に帰り暫くすると、国友さんとホテルのフロントから人が来て、セーフティーボックスのトラブルを調整してくれた。これで使用が可能になった。
 20:30今日一日のことをメモしながら、いただいた資料を整理する。風呂もゆっくりと入ることができた。2年前のウズベキスタンの時は風邪を引いていたので、夜、風邪薬や疲労回復剤などを飲んだが今回は本当に体調もよい。それに天候にも恵まれ大阪を出発してから今日まで一粒の雨も降らないし、例年になく暖かい春だという。ただその分、日本は急激に冷え込み、私達が出発する時には半分咲いていた桜が「縮み上がっている」らしい。
 23:30就寝。