’08.03.29.〜 04.05.
中村哲之助議員の訪問記
*各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
DBV市の観光と復興策(4月 3日) ・・・ 
 目が覚めると7:15。暫くすると7:30のモーニングコールがあった。CR国に来て毎日モーニングコールがあるが、日本や欧米諸国と違って、すべてホテルの担当者が順に肉声でかけてくる。だからこちらからThank youと言うと、その時々によって返事はちがうが、O.K, Have a nice day! のようなことを言う。ベッドの傍にアラームをセットするものも無いし、そういった面では相当遅れている。私達が府庁から送られてくるFaxを何部か作成しようとコピーを頼んでも、一枚一枚ガラス板の上に置いていく方式のコピー機である。世界中、電子機器の改良は目覚しいものがあるが、不必要なまでの機能が付いていてそれを十分にこなすことができないというよりはずっと良い。
 
 8:10に6Fのレストランへ朝食に向う。この日もお決まりのメニューであるが、不思議なことに生野菜がない。私はコックにオムレツを注文し、玉葱やピーマンなどの野菜炒め、シリアル(コーンフレーク)+牛乳、フルーツ(パイン、グレープフルーツ、リンゴ)、リンゴジュース、ヨーグルトとコーヒーにする。30分程度で食事を終え、私はこのホテルの特徴のケーブルカーのようなエレベーターで1Fへ降りる。各部屋もEVもすべてがシービューで静かな海面が美しい。
 今日は事実上、今回の視察の最後の日。8:55にロビーへ行くと半分の議員がいる。9:13バス出発。約20分で旧市街に到着するが「小高い場所から城壁に囲まれた旧市街の全容を見ていただきたい」ということで展望台へ。旧市街の城壁と何百年を経た住宅などの様子がよく見えるが、どこが空爆などで破壊されたか、この場所からでは想像もつかない。私達の立っている横にはこの国の花「菖蒲」が青い花をつけている。10〜15分くらいで旧市街へ戻り、プロチェ門から早速、スポンザ宮殿内の戦争博物館へ入場。
 ここには内戦時の状況を後世に伝えようと様々なものが展示されている。チトー大統領時代〜ユーゴ軍との内戦によって傷ついた市街の状況や、多くの戦死者の遺影が掲示されている。1991年12月6日の突然の空爆で亡くなった人たちがほとんどだが、改めて、戦争の悲惨さを思う。特に目を引いたのは、DBVに対する空爆の状況を示す下の写真。印の付いている家に命中したという。67%の屋根が破壊され、石とレンガで造られた家でも火災はかなり激しかったようだ。米・英はじめ多くの国の元首や著名な政治家もここを訪問し、サインを残している。私達もここにサインし、市庁舎へ向った。
 10:45に市庁舎(昨日の副知事に会ったのと同じ庁舎)に入った私達を、DBV市の多くの関係者が温かく出迎えてくれた。

・応接者 ドブロブニク市再建機関長 イヴァンナ・イエモ氏
ドブロブニク市再建機関員 アンドリア・トリア氏
    〃       イレーナ・ルドロ 氏
ドブロブニク市環境整備課長 ニケ・スダレヴィチ氏  他
・テーマ ドブロブニク市の都市再建について
内戦後のインフラ整備と官民の連携について

 10:45DBV市の関係者と意見交換を始める。最初に議員団からイヴァンカ・イエモ氏に参加者リストと記念品を渡し、挨拶。DBV市側からも、歓迎の言葉が述べられた。

(1)DBV市の説明
 DBV市に破滅的な打撃を与えた地震の後、1979年に復興のため、再建機関を設立し、組織的な修復・復興にとりかかった。特に国は特別法を制定し、歴史的施設を中心に取り組んだ。
 この際の特別法によって、修復・復興に必要な費用の60%を国が、20%を県が負担し、残る20%を市が負担することとされ、どの部分からどのように対策を講じるかは、市の機関によって決定することとなった。
(この点は日本の状況とよく似ていて、都市が計画を立て、それに国や県が一定の割合で負担するというのと同じである)
 この地震への対応が軌道にのりかかった時に、ユーゴスラビアの内戦が勃発し、特に1991年12月の大規模な空爆によって大ダメージを受けた。この時の状況は詳細に写真を撮り、現在はCDでも保管している。直撃弾が314発、旧市街地の70%の施設が被害を受けた。
 しかし、当時の市民は厳しい中でも一丸となって復興に取り組み、ようやく今の姿にすることができた。まだ地震で倒壊したままのものや、銃弾の後が生々しくのこっているところもあるが、観光都市として、ますます世界の人々にお越しいただきたいと説明があった。


(2)議員団の質問と意見
 この説明の後、議員団から「私達も第二次世界大戦では、DBV市と同様に大阪空襲を受けて焼け野原となったが、府民の力で復興して今日を築いた。まだまだ厳しい状況が続くだろうが、市民のため、また世界遺産を守るために頑張ってほしい」と、エールを送り以下のような質問を行った。
  1. 復興計画の策定のため、どのような方式をとったのか

  2. 復興計画に住民の意見はどう反映しようとしたのか。また、現実にどう反映されているか

  3. 一部地域に高層ビルが建っているが、街並みのイメージを守るため、どのようなコントロールをしているのか

  4. 旧市街地の土地の権利者は個人か。また売却しようとすれば、建築物そのものが世界遺産であり、行政はこれにどう関わるのか

  5. 復興費は膨大なものと思われるが、ユネスコなど、CR国以外の資金援助や人的支援はどうであったか  など。
 
 これらの意見交換が約2時間あった後、プロジェクターを使っての説明資料などをもらい、記念撮影を行った。最後にイエモ氏らは「私達の説明をもっと理解してもらうのに、城壁の上をゆっくりと歩いて欲しい。そうすれば地震で倒壊したままのものや爆撃を受けたもの、また復旧した屋根と無傷で残った屋根との違い、旧市街地内に住み続ける人達の状況が良く分かる」と言われた。私達はお礼を述べて庁舎を出ると、何と外は雨。CR国で初めての雨で、傘をさすことに。国友さんから「午後から雨が降るかもしれないので用意を」と言われていたので折りたたみ傘をバッグに入れてきて正解だった。