2010.04.15.〜 04.22.
中村哲之助議員の訪問記
※各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
ザモシチの建築美(4月18日)
 5:30に目が覚めた。今朝もポットでお湯を沸かし緑茶を飲む。パジャマやスリッパ、靴などを整理してトランクに入れる。資料などをいただいたのとWIEで購入した岩塩が入って大分重くなった。07:00に昨日と同じようにモーニングコールがあった。
 07:15家へ久しぶりに電話する。日本では午後2時15分だ。このホテルは外線へはHをプッシュと書かれているので9・0081・72・831・3131を押すと日本と全く変わることのない妻の声が聞こえる。雑音も一切ない。「21日に乗る予定のFRA発の飛行機が飛ばないかもしれない。その前にPOL国からFRAへの飛行機もダメかも知れないので帰国がずれるかも知れない」と言うと「日本でもテレビでヨーロッパの空港を映しているが凄い状況だ。仕方ない、運を天に任せるしかないネ」と答える。今日は日曜日で事務所は閉めているので家へのTelだけで終わり、トランクをドアの外へ出し、07:35に朝食へ。
 私の朝食のパターンはほとんど変わらないが、今日はソーセージ、じゃがいもを加えた。このホテルのチーズは種類が少ないが味はよい。カマンベールは日本より少し塩分が多いが、プロセスチーズはその逆で食べやすい。ヨーグルトは客が自分でカップに入れるのではなく、紙コップのような中に入っている。ブルーベリー、ストロベリーなどの写真が印刷されたもので容量は180mlもある。そして少し甘い。オレンジジュースをコップに一杯と、コーヒー一杯、フルーツをしっかりと食べて食事を終わる。08:10になっている。もう一度部屋へ戻り、忘れ物はないかをチェックし、ロビーへ向かいチェックアウト。
 08:45全員が揃ったので出発。沿道にはテープが張られ、物々しい警備体制がとられている。警察官が10m間隔位で立っている。早く出ないと交通規制も行われるようである。大統領の国葬は20日の予定であるが、今POL国では、スモレンスクでの事故で死去した人達の身元が判明すると、それぞれの葬儀がその人の故郷などで行われているという。
車窓からバルバカン、フロリアンスカ門などを見ながら進むと、私達が出発して10分足らずの08:54、「連帯」の旗を持って会場へ向かう多数の人達が見える。レフ・カチンスキー氏はワレサ元大統領とともに連帯で活動していたことから同氏の死を悼んで参加するようである。また、その一方で大統領をヴァヴェル城に埋葬することは問題だとデモも展開されているらしい。歴代の国王が埋葬されている場所に民間人の大統領を埋葬するのはおかしいということのようだ。

 これから長いバスの旅が続くので、MALさんが「POL国の歴史などについてお話する」と説明が始まった。POL国はスラブ人が定住することによってできた国で「ポレ」とは「畑」の意味で畑の民ということだ。966年に有力な代表(王)が10人、ローマカトリックに改宗して洗礼を受けPOL国はローマカトリックを深く信仰するようになった。
 13世紀にはドイツの騎士団が来たこと、14世紀にはWIEの岩塩を発掘して国を潤した国王が木造の家屋を煉瓦造りにと奨めたこと、KRKに世界で2番目に古い大学を創ったこと、1700年代に国が分割されたこと、1791年に世界で2番目と言われる憲法が出来たこと、1918年にPOL国が正式に独立したこと、1939年5月に第二次世界大戦がポーランドの北部、グダンスク(連帯の発祥地)で始まったこと、1947年からソ連の影響で社会主義体制になったこと……などが次々と話された。
 これらの歴史の話に次いで、著名人の紹介が続いた。MALさんは、「POL国で最も有名なのはショパンだ」と言う。ショパンの生い立ちの説明の後、39才で死んだショパンはフランスで埋葬されたが、心臓だけは姉がPOL国へ持ち帰り、聖十字架教会に埋められているとのこと。POL国では、その人の最も大切な部分だけを取り出して、別の場所に埋めることがしばしばあるようである。さらに天文学者のコペルニクス、ノーベル賞を2度受賞したキュリー夫人、映画のアンジェイ・ワイダ監督(灰とダイヤモンド、地下水道など)、ヨハネ・パウロ二世、ワレサ、ロビン・シュタイン、ルス・ハンドラー、バタフスキー…と、その人の生涯を興味深く語った。また、POL国の資源としての天然ガス、塩、硫黄、金、などの埋蔵量と現在の発掘量などについても説明。私たちが車窓から見る景色は何十分経っても写真のような同じ景色が続く。広大な畑と時々現れる林、点在する家屋…、限りなく続く真っ直ぐの道路、そして、感心するのは粗末な家屋を目にしないこと。平均的に立派な住宅である。

 12:00ワインツチェ地方にあるお城のレストラン・ツァムコワに到着。

12:10からここで私達はロールキャベツをメインにした昼食をいただいた。約1時間で食べ終わり、13:15広い敷地内の公園などを見学。赤・青・黄などの美しい花が咲いている。13:30出発し、ZAMへ向かう。車窓からの景色は先ほどと同じで、本当に長閑である。
どこまでも続く畑、時々出てくる林、しかし山というものがこの国にはない。一面、平面なのである。日本と比べ面積は80%であるが、日本の山などの多い地形と違い、有効に土地利用できるのはPOL国の方が3倍、4倍くらい広いように思う。15:07ドライブインでトイレ休憩。POL国ではどのドライブインも日本のように車が溢れているということはない。トイレもガラガラだ。15:25出発。ZAMまで後45kmくらいのようだ。
 MALさんが、「もう少しでZAMに着くので、少しZAMのことについて説明する」と言う。ZAMはPOLの貴族ヤン・ザモイスキーが若い頃に感銘を受けたイタリアの町並みを自国にも造りたいと、イタリアの建築家ベルナルド・モランドを呼び寄せて造った。ほぼ五角形の堡塁で囲み、外敵からの侵攻を防いだようで、形状は日本の五稜郭に似ている(下記写真)。
 ZAMは最近まで県庁所在地で、人口は約65,000人。周辺は農業が盛んで、そば、たばこ、ホップが特に多い。また、そばは日本のように加工せず、実を茹でてそのまま食べる。主食のじゃがいもの代用品的なもので、発酵したキュウリとはとても合い、美味しいらしい。さらに、POL国にはサトウキビはなく、砂糖はテンサイ(砂糖大根)から作るようで、ロシア・リトアニアに近い北部地域で栽培されているらしい。
 車窓の景色が少し今までと違うなと思っていると、MALさんが、「皆さん、この辺りは非常にヤドリ木の多い所だ。このヤドリ木をクリスマスの日、若夫婦が部屋へ持ち帰って、その下でキスをすると永く幸せになれるという伝説がある」と説明。本当に道路脇の木という木にヤドリ木である。
 15:55 ZAMの旧市街へ入る。小さい街であるので私たちはまず、ホテル・オルビスに入る。それぞれが荷物を各自の部屋に置いて、16:30 ロビーへ集合。
 このZAMは、1992年に旧市街地全体がユネスコの世界遺産として登録された。私達はMALさんの案内でザモイスキー家の宮殿 → 大聖堂 → 堡塁 → 旧市庁舎前広場の順に足を運んだ。KRKの聖マリア教会ほどの大きさではないが、立派なつくりの落ち着いた大聖堂である。ここにも第2次大戦当時の悲しい出来事が壁面にレリーフとして残されている。
修理中の旧市役所前の広場では多くの市民が談笑している。また、商業地区の建物には様々な色がつけられ、ここはアルメニア人、隣は△△人というように、色で分かるようになっている(右写真)。ここは第2次大戦でも奇跡的に破壊をまぬがれたことから、後期ルネサンス建築がほぼ完全に残され、往時の姿を今に伝えている。しかし、長年の風雪による老朽化が著しく、大規模な改修工事が所々で行われている。一貴族が理想郷を造ると心血を注いだにしても、よくこれだけのものを完成させたもの。ただただザモイスキーに感謝するのみである。
 18:10 私達はホテルに帰る。ホテルを出てから約1時間半経っている。「7時にはロビーへ降りてほしい。ここで夕食をとる。」と国友さんが言う。私の部屋は101号室だ。POL国では日本の1階は0階、またはロビー階、2階は1階、地下1階は−1階と記されている。
 私は部屋に入ってトランクを開き、靴やスリッパなどを出して洗面所へ。うがいをすると、何と洗面の水が流れない。「アレッ」と思って蛇口の後方のレバーを操作するがまったく動かない。水を出せば、その分が流れず、その内に溢れてしまうため、これ以上は水を使えない。おまけに部屋のライトが点かず、電球も切れている。これは困ったことだと、フロントへ電話するが十分に言葉が通じない。仕方なく国友さんの部屋へ電話するが不在。きっと夕食の打ち合わせだろう。私はロビーへ行き、フロントで説明するとやっと分かったのか「担当者を部屋へ行かせるので、待っていてほしい」と言う。5分程すると担当者が道具箱を下げて修理にやって来た。電球の取替えはすぐに出来たが、洗面の修理は不可能だと判断したのか電話でフロントと話をしている。私は「部屋をチェンジしなければダメなのではないか」と言うと、「暫く待ってほしい」と言って部屋を出て行った。待っている間に国友さんにも連絡がつき、事情を説明すると、早速フロントへ連絡してくれた。2〜3分で国友さんから、「ホテル側も申し訳ない。部屋を変わってもらえるかと言っている」と連絡が入り、私はOKし、123号室へ移ることに。国友さんがキーをもらってくれ、トランクから出した物をまた全て納めて移動。もう19:00になっている。国友さんにはロビーへ先に降りてもらい、私も急いで荷物だけを置いてレストランへ。

今日の夕食は鱈(タラ)のフライがメイン。みんなでワイワイと今日のことを話しながら、食事を進めるが、帰国便のことが話題に。国友さんの説明では、大阪は勿論、こちらの旅行会社とも連絡を取っているが、空港は今も完全に閉鎖され、搭乗できない客でごった返しているとのこと。これまではヨーロッパ南部のイタリア方面は運行されていたが、これもストップし、私達はPOL国のWAW → ドイツのFRAへの空路による移動も出来ないとのこと。これが20日、21日になって解除されるかどうかは現時点では分からない。もし、私達が21日に搭乗予定のLH 740便が飛ばなければ、数日先の便になるのか、1週間、10日先になるのかは分からないという。さらにその前に、WAW → FRAへの移動をどうするかもある。従って、どんな帰国方法があるのか、そのためにはどれほどの費用が必要となるのかなどを調べて相談するということになった。

 20:40 食事を終えて部屋へ。この部屋は最初の101号室よりも少し広いが、1階の最も奥にあるため、エレベーターまでは非常に遠い。しかし、今日は長いバスの旅で疲れたこともあり、早目に休もうと思い、同僚議員に誘われたがホテルのバーへは立寄らず、部屋へ帰って風呂に入り、そのまま休むことにする。このホテルは、KRKのホテルとは違って設備などもそんなに十分ではない。湯沸し器などはないため、トランクに入れてきたものを出して湯を沸かす。KRKで3連泊したのとは違って、ZAMでは一泊しかしないため、もう翌朝に向けた整備をしておかねばならない。これで、POL国での半分以上が過ぎたことになる。