2010.04.15.〜 04.22.
中村哲之助議員の訪問記
※各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
すごい地下岩塩坑(4月17日・午後)
 AUS・BIRからバスで約1時間の所だと聞いていたが、到着したのは12:43。
近くのレストランで簡単な食事を取った私達は少し休憩した後、13:50 WIE岩塩坑へ。ここは全体が世界遺産として登録されている。入口を見ているとこんな所に岩塩坑があるのか?と思う。 ここでも写真を撮りたい人はお金を支払う。同じようにワッペンを胸の上に貼り付けた私達は14:00に入場。私達はまずエレベーターに乗って地下1階(−60m)へ。日本ではこんなエレベーターは安全上ダメということになると思う。何とエレベーターは4層構造で一層のボックスに7人乗れる。私達の上にも下にも誰かがいるわけである。エレベーターが外から閉められると一気に下降し地下1階の採掘場所跡に。ここで専属のガイド(スジスワク氏)が説明し、MALさんが通訳するが、暫くするとMALさんだけの説明になり、ガイドは道案内だけになっている。
 ここの岩塩の純度は99%だという。鉄分が入っているとピンク色に見える。坑道はこれまで順に掘り続けてきた結果出来た穴であり通路であるが、天井の高さは4〜5mある。この地に岩塩ができたのは1,800万年前で発見は4,500年前のようだ。カリフラワーのようになった塩の花、塩辛い壁面、大理石かと思うほどの床(通路)、天井からの塩の氷柱(つらら)‥‥等、感心するものばかりである。私はこれまでいろいろな鉱山を見てきたが、それらとは全く別の物である。ほとんどの場所に安全対策の支柱などが無く、壁そのものがコンクリートの擁壁の様になっている。運搬のためにトロッコを通したレールが残っているところもある。この中では、採掘した岩塩を運び出すための様々な工夫が見られるが所々に馬が置かれていたようである。この坑道内に一度入れられた馬は二度と地上には出られなかったという(外の明るさに目が耐えられなくなってしまう)。700年もの間、POL国の財政を支えてきたここWIEであるが、一方で、ここで働く坑夫達にとっては他で働くよりも多くの給料を獲得できるため、全国から多くの労働者が集まってきた。最近まではほとんどが人力であったが、時にはダイナマイトを使用することもあったらしい。
 現在の見学ルートは約3.5kmであるが、700年以上もの採掘によって、坑道は300km以上になり、採掘によって空洞となった部屋は2,000を超える。坑夫達が祈りを捧げた聖ギンガ礼拝堂はまさに地下宮殿とでも言うほど立派な造りになっている。岩塩で出来たシャンデリアが輝き、床はまるで大理石を敷きつめたようだ。柱や壁にも彫刻が施され、これが文化・芸術とは無縁と思われるような人達が造り上げたものだと説明され、ただ驚くばかりだ。またこの地下では現在、会議、宴会、結婚式などが行われるとともに、アレルギー疾患などを治療するためのサナトリウムまでがある。岩塩から放出される成分が人体にとりわけ呼吸器などには効果的で喘息の発作などもここでは起こらないという。さらに地下100mもの場所に地底湖がある。濃度は35%だから、何と1g中の塩は350gにも。20〜30分もこの中に入ると死亡してしまうようだ。そして、岩塩で作った様々な彫像や壁画がある。
 私達は地下135mの場所からエレベーターで地上へ戻るが、階段を登れば750段あるようだ(一段は平均18cm)。15:40外へ出た私達はバスでホテルへ向かう。
 16:20ホテル到着。今日でKRK滞在は終わり、明日の日曜日はザモシチ(以下、ZAM)へ移動するため、部屋へ帰って荷物を整理する。クローゼットに吊るしていたスーツなどをトランクに入れ、雑誌類を捨て、下着類は洗濯することに。私は海外へ出る時は下着など古くなった物を用意し、(家では廃棄処分しないで)現地で捨てていくことにしている。こうすると、トランクの中にゆとりが生まれる。ところが今回ばかりは火山の噴火によって航空機が飛ばないため、本当に予定どおり帰国できるかどうかが分からず、もしPOL国やドイツに長く滞在ということになると困るので、今日からは下着類を捨てないで洗うことにした。

私は40分程度でこれらを終えて、これまで何度も見てきたヴァヴェル城や聖マリア教会などのある地域の反対側の東地域を一度散歩してこようとホテルを出た。城や教会などのように目を引く建築物はないが、路面電車やバス、乗用車、歩行者など、眼に入る風景は、普通のどの街でも見られる「普通の景色」だ。ただ、旧市街のような広大な緑地は見られない。
40分余り散歩して戻ると、ホテルのロビーには何人かの議員が集まっていた。それぞれの議員が、「TVを見ていても言葉は分からないが、アイスランドの火山噴火は凄い。その影響を伝えているが、どの空港も閉鎖している。我々はどうなるのだろうか」と、この話題になってしまう。
 18:05私達は徒歩で歴史地区の中にあるレストラン「マルモラダ」へ向かう。スモレンスクでの悲劇に遭遇したPOL国首脳の写真が大きく掲示され、多くの人達が織物会館のある中央市場広場へ集まり始めている。私達は約10分で到着。食事の中の話題はやはり「AUSとBIR」に。本当に重いテーマであった。
またこれとともに、本当に飛行機が運航されるのか、運航されなければどうするのか?などいろいろと話し合い。現在も空港は全て閉鎖され、多くの人達が足止めを食っているようである。また英・仏、独・POL、露・独などの近距離国際線も全て欠航となり、どの旅行者も弱り果てているようだ。私達は明朝から外務省や大使館とも連絡を取りながら帰国の方策を決めることにして、20:30に食事終了。国友さんから「明朝はKRKからZAMへ長距離移動する。くれぐれもパスポートや貴重品を忘れないように」と言われる。私は何人かの議員と一緒に身動きできないほどになっている広場へ向かう。
特設ステージでは何という曲かは分からないが演奏が続き、歌声も響いてくる。ステージの横に設けられたスクリーンにそれが大きく写され、何万人という人達がじっと舞台に向かっている。追悼音楽祭が遅くまで続くそうである。私達は15分程でここを後にし、散歩しながら21:10ホテルへ戻った。
 バスタブに浸かりながら、家や事務所には一度も電話していないし、飛行機のこともあるので明朝は早くに電話で連絡しておこうと思う。22:30を過ぎているが府庁から昨日届いた切抜きを少し読み就寝。