2010.04.15.〜 04.22.
中村哲之助議員の訪問記
※各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
戦慄のアウシュビッツ(4月17日・午前) ・・・ 
 昨夜は12時前に寝たのに、今朝は4時過ぎに目が覚めた。06:30のモーニングコールまでは相当時間があると思ってもう一度休むが、1時間余りでまた目が覚めた。もう寝ているわけにもいかず起き上がって、トランクから小説を出して読む。先日発表された直木賞作品である。一時間余り緑茶を飲みながら小説を読んでいると、06:35にモーニングコールがあった。「Good morning,…」と言うので「Thank you, …」と言うと電話が切れた。最近のホテルは宿泊者が電話機や時計などをセットするか、フロントへ頼んでおいても大抵はコンピューター音で知らせてくるだけなのに、このホテルは一人ひとりの客に担当者が電話しているようである。
 07:00着替えて地下1階のレストランへ行くが、入口の正面に置いてある椅子に関、山添両議員が座っている。レストランは明かりも点いていない。そこへ国友さんがやってきて、「エッ、閉まってるんですか?」と聞く。「そうだ」と言うと、早速ドアをノックし「早く用意を! 昨夜、7時にはオープンすると聞いている」と苦情。従業員は07:30からだと言うが、何度かのやり取りで07:10にオープンするから少し待ってほしいと返事。すぐにライトが点いて中の用意が始まる。程なくしてドアが開けられたが、日本のような訳にはいかない。私はいつものとおり、野菜・チーズ・玉子・コーンフレーク+牛乳・ヨーグルト・フルーツで食事を終えて部屋へ。07:45にロビーへ降りて、コーヒーサービスを受ける。
 08:00出発で今日はAUS(POL国では、オシフィエンチム)を訪ねることになっている。予定どおり出発すると10分足らずで車窓はもうすっかり田舎の景色になっている。約1時間のところにあるため、今日の視察のための予備知識としてMALさんから資料をいただき説明を受ける。ドイツが建設した強制収容所は写真のように、何とヨーロッパに19ヶ所もあり、その内の9ヶ所がPOL国内にある。その最大のものがビルケナウ(以下、BIR)で、次いでAUSだということである。
 そして驚くべきことは第二次世界大戦前のPOL国の人口は3,500万人余りであったのが、終戦後の人口は2,300万人になったとのこと。移住した人もいるようだが、1,000万人以上もの人々が殺害された訳である。戦慄するとはまさにこんな時のことを言うのであろうか…。そんな説明を聞きながら09:08にAUSに到着。すでに大型バスが1台と自家用車が数台止まっている。トイレなどそれぞれが入場の準備中、MALさんらが依頼していた花束を購入して持ってきてくれた。これを私達は「死の壁」にお供えし、多くの方々の冥福を祈る予定である。

 入場した私達は、入口付近でガイド用イヤホンをお借りして着用する。09:20過ぎから中谷剛(なかたに たけし)氏の説明が始まった。同氏は学生時代に訪問したAUSのことが忘れられず、このようなことを後世に語り伝えていかなければならないと、苦学してPOL語でのAUSのガイドテストに合格された、ただ一人の日本人ガイドである。日本では同氏のAUSを伝える書籍も出版されている。
 同氏の案内はまず、私達がよく知っている有名な入口から始まった。有刺鉄線で囲まれた収容棟の入口で、ここには「働け、そうすれば自由を得られる」とある。写真の右端の私の後方に建っているのが看視塔でこれが数え切れない程に設置され、有刺鉄線に触れた者には容赦なく銃弾を浴びせた。
 収容棟のある構内へ入った私達は、数多く建てられた煉瓦造りの建物の一角で、「この建物1棟に平均700〜1,000人が収容されていた。そして囚人を働かせるため、1日2回の薄いスープと黒パン一個を与えた。囚人は差別され、国籍や反社会的分子、教育囚人、エホバの証人、ホモなどを色で区別した。囚人は当然、機械の部品のように扱われ、この監督として命と引換えに囚人を充てた。囚人によって囚人を看視し、看視役の囚人には個室を与えた。収容された囚人は重労働と飢餓のため2〜3ヶ月で次々と死んでいったが、その死者数を遥かに超える新たな囚人をドイツ軍は送り続けた。収容所に入りきれなくなってくると第2、第3の収容所を建設していった。AUSの第二番目の収容所がBIRで、規模も殺害した人数もAUSよりはるかに多大だった‥」と同氏から聞く。
中谷氏はまた、「ナチスドイツは一方で非常に諸外国の動向を気にしていた。とりわけ、ソ連によるカチンの森事件が明るみに出た直後から、これまで大量殺戮し、埋めていた遺体を掘り起し、すべて証拠が残らないよう焼却した。ヨーロッパでは通常、遺体は土葬するのが常識であったから、ここでの焼却は文字どおり想像を絶する行為だったようである。
 24時間休みなく、一つの炉に2〜3体を入れて30〜40分で次々と焼却し、骨は灰のように細かく砕き、近くの畑や川に捨てたようである。ここでの毎日の焼却は350体ほどだったという。AUSでは殺害した人達の数が110万人とも150万人とも言われ、この差は今なお埋まらないとのことである。時には収容者が10万人にもなる時があったようであるが、高齢者、乳幼児、妊婦、病人、障害者らは労働力になり得ないとし、収容所に連れてきた途端にガス室へ送り、チクロンBで毒殺(処刑)した。まさにこれは戦争などではなく、絶滅センターでしかない。この人達は囚人として登録されることもなく焼却されたため、一体何人が収容所送り→ ガス室 → 焼却となったのか、正確には分からないという。 
 このような説明を聞きながら建物に入る。ここは今、国立博物館とされている。展示品は撮影禁止となっているため、これをお見せすることはできない。しかし、これをお見せできても、残された遺品を見て、その凄まじい状況への感想を正しく伝えることは、私には到底出来ないだろう。逮捕された者や移住するのだと騙されてここへ来た人‥‥など様々であるが、その人達の残した物は余りにも痛ましい。
  • 8万足を超える靴(大人だけでなく幼児の小さな靴などもある)
  • 4,000個にもなるトランク(住所や名前まで書かれたものもある)
  • 1万個を超える鍋
  • 数え切れないメガネ
  • 何百組とある義足や義手
  • 女性から切取った髪の毛 1,900kg(切取った総量は何と8,900kgに達する)
  • ・金歯などを熔かして作った金属類が40トン
など、見る者を息苦しくさせてしまう。女性の髪の毛の展示を見ていると本当にゾッとする。ナチスドイツは死体から回収(これは奪ったのではなく取戻したのであって、悪いことではないのでこう呼んでいた)したこれらの物をすぐに社会の中に吸収させていった。金だけで1,638.7kgあったようで、これはドイツの中央銀行へ、そして髪の毛は他の繊維とともにカーペットや布地として使用された。