2010.04.15.〜 04.22.
中村哲之助議員の訪問記
※各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
議会制度と福祉を学ぶ(4月20日・午前) ・・・  ・
 今日の予定は06:45モーニングコール、08:25ロビーに集合し、POL国下院(セイム)を訪問することになっている。私は昨夜、11時過ぎに寝たが一度も夜中に目覚めることなく、朝6時まで熟睡した。前夜にサウナで汗を流した効果もあったのだろうと思うが、体が少し軽くなった。07:30にロビー階へ降り、奥のレストランでいつもどおりの朝食をとり、部屋へ戻ると08:05になっている。今日のセイムへの入場に必要なパスポートを確認し、ロビーへ。
 国友さんが、「午後、FRAからKIXへ1週間ぶりに飛行機が飛びそうです」と伝えてくれる。しかし、WAWからFRAへは止まったままのようで、もう少し正確な情報を得たいとのこと。

 08:25全員が揃ったので、バスでセイムへ向かう。08:53セイムに到着すると、小学生達が先生に引率されて大勢で国会見学に来ていた。私達は当初、セイムの議員団との懇談を予定していたが、突然の飛行機事故によって多数の議員らが死亡し、今日が国葬となっているため、どうしても意見交換は実現できなくなってしまった。そのため、国会事務局のミロスワブ・ヤロスシニスキー氏が対応してくれた。
 調査団を代表して冨田議員が、「今回の不幸な出来事に対し、心からのお悔やみを申し上げる。本日は国葬で大変お忙しい中を、こうして我々の訪問をお受けいただいて感謝している。貴国はこれまでから何度も苦難に耐え、力強く立ち上がってこられた。今回もこれを乗り越えられ、貴国が大きく発展されるようお祈りする」と挨拶し、大阪から持参した「おみやげ」の浮世絵風呂敷を手渡した。
 これに対し、事務局のヤロスシニスキー氏は、「日本の大阪から、議員の皆さんがお越しになったのを心から歓迎する。しかし、今日は国葬が行われることになっており、上下両院議員はもとより、多くの関係者がこのために対応することが出来ない。あまり時間をとることが出来ず、申し訳ないが、ご了解いただきたい」と述べ、私達を下院本会議場へ案内し、下院の概要を説明された。正面にPOL国の国章と国旗、弔旗が掲げられ、死亡した議員の議席には遺影とともに花束が置かれ、議場内は深い悲しみに覆われている(2頁の写真)。また、正面の議長席に向かって右側の座席にも多くの遺影と花束が見られる。これは大統領の着席する場所で、その後ろ3席は、国立銀行長(日本の日銀総裁に当たる)、官房長官、国会歴史・議事録作成責任議員らの座席だという。向かって左側が閣僚の座席で、比較的、日本の議場とよく似た感じである。
 私達が感心したのは、演台前に設置されている速記者席とは別に、下院議員の中から若手議員が選ばれ、議会審議の模様や議事録を「議員の目と耳」で整理し、後世に残していくというものである。当然、速記者が審議のすべてを記録し、議会がそれをまとめて議事録にするはずであるが、これまでは社会主義体制の下で、秘密主義で正しく国会の模様が伝えられなかった。つまり、不都合なことは改ざんされ、隠され、国民には正確に伝えられなかったという苦い過去を深く反省し、この制度が始まったようである。今は民主的な国会運営が始まり、年代記のようにまとめているということである。
 同氏は私達に、
  • POL国では1493年から2院制国会が始まったこと
  • 中世の様々な歴史の中、近代の1919年2月10日、123年間の隷属の後、WAWのディエエイスカ通にPOL国の第2共和国の議会がスタートしたこと
  • 1921年3月17日、下院が憲法を制定したこと
  • 上下両院の権限の関係や、第二次世界大戦による破壊によって国会の建物は外壁だけになったこと
などを説明し、全員が傍聴席の出入口付近にある広いスペース(ロビーエリア)へ移った。
 ここには写真のように、多くの名前が記されている。この名前は、第二次世界大戦中、ナチスドイツによって殺害された下院議員約300人の名前だという。AUSでの大量殺戮に衝撃を受けた私達はここでも、国会議員の大半がなぜ殺害されなければならないのか、POL国を襲う悲劇に胸が痛んだ。1940〜1943年までの間、どこで殺害されたのかが分からず、今もなお不明の議員もいるという。

この時、国友さんの携帯電話に連絡が入り、FRAの空港が一部再開され、遠距離国際線が運航される予定で、KIX行きの飛行機も午後に飛ぶ予定だという。ただWAWの空港はまだ再開されておらず、今もなおパニック状態のようだ。国友さんは私に、「絶対にKIXへ到着できるという保障はまだない。途中から引き返すことも有りだが、火山灰の影響を受けない高度に変更して飛行するらしいので、まず大丈夫だと思う。そうなれば、私達の明日の午後の予定便はKIXに向けて飛ぶことはかなりの確立で高いと思う。ただ、ここからFRAへ行くのをどうするのかということが大きな問題だ。どの方法が一番よいか、もう少し検討する」と言う。
 同氏の説明は続く。これまでの社会主義体制が変わり、近代の欧米先進諸国と同じ選挙制度になり、現在は「市民プラットホーム」が最大政党で、死亡したレフ・カチンスキ大統領の所属していた「法と正義」はこれに次ぐ政党である。
 議員団から、「POL国の民主化に大きな影響を及ぼした『連帯』はどのような政党に所属し、どのような活動をしているのか」との問いに、同氏は「彼らは一つの政党ではなく、市民プラットホームや法と正義、それ以外の政党などに分かれて他の議員と同様の活動をしている」と、答えた。また、今回の事故で多数の下院議員が死亡したが、補欠選挙は行われず、直前の選挙で「次点」となっていた者が繰上げ当選し、残任期の間、下院議員となるようである。なお、上院の場合は下院と異なって、すべて補欠選挙が実施される。
 ここから私達は円柱の間といわれる美しい部屋に案内された。ここでは本会議とは別に委員会が行われ、議員同士が活発な議論を交し合うとのこと。また、特別のテーマだけで議論するのもこの部屋だという(日本の特別委員会に当たる)。広さは全議員の約1/3が入れる程度の大きさであるが、平均して50人程度の議員数での利用が多いようである。
 私達は下院に続いて上院にも案内していただいたが、ここにも4人の遺影が置かれていた。
私は記帳台で、Member, Osaka Prefectural Assembly , Tetsunosuke Nakamura / 20.Apr. 2010 と記帳した。
 上下両院とも、議長が議会の開会を宣言する際には錫杖が使われる。議長が錫杖で床を3度打ち付けることによって開会となるのであるが、歴代議長が使用していたものが4本、廊下に展示されていた。
  • 1本目はトゥロンプチンスキー氏が使用したもの
  • 2本目はトランポスキー氏が使用したもの
  • 3本目は上院で長く使用されたもの
  • 4本目は1989〜1993年の間に使用されたもの
ということであるが、3本目の上院で使用されてきたこの錫杖には過去の歴史を印している極めて重要なものだという。それは、議長が握るあたりに3本の金色の輪があること。上が1791/5/3の憲法制定、真ん中が1918/11/11の独立、下が1989/6/4の初の民主的な選挙実施による議会を記念している。POL国における社会主義体制の終焉を告げた錫杖というわけである。このように、大事な出来事が起こった時(歴史の転換点)、錫杖が取替えられるという。他国では経験したことのない厳しい試練に見舞われ続けながら、不屈の愛国心で立ち上がってきた歴史を国民の誇りとしている証左であろう。
 上院は定数が100で、そんなに広い議場ではないだろうと思って入場すると、想像以上に狭く、府議会本会議場よりも狭かった(写真)。人民共和国と称していた時代には一院制のみで、上院はなかった。共和国になってから設けられた上院は、憲法の規定では下院よりもその権限を下位にされてはいるが、上院議員は下院議員よりも尊敬の対象になっているとのこと。同氏の説明を聞き、今回の事故で死去された人々への追悼行事の様子や、多くの国民が心を痛めている姿を目の当たりにし、POL国では政治家はわが国以上に国民から深く信頼され、尊敬されているように思う。
 これらの同氏の説明に対し、議員団からは、
  1. 本会議と委員会審議の比率
  2. EU加盟による議会の影響
  3. 国会と地方議会との関連
  4. 社会主義体制下の政党と現在の政党
などについての質問も出された。私達はセイムの議員との懇談ができなかったのが本当に残念だったが、これは致し方なく、10:25同氏にお礼を言ってセイムを後にした。国葬に奔走されていた中を本当に申し訳なく、心から感謝申し上げる。