民主党無所属ネット議員団・ウズベキスタン調査団
中村哲之助議員のウズベキスタン訪問記

*各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
ブハラの産業と遺産などを学ぶ(4月21日・金)
 今日はサマルカンドを出て、ブハラ(ユネスコ世界遺産指定都市)へ向かう。モーニングコール6:45、荷物出し7:30、出発8:00の予定である。
 この日はかなりの人が早くから朝食をとっていたので、私が行くと、もう昨日のようなポテトはなく、オムレツを頼むにも行列ができていたので諦めて、コーンフレークに牛乳、ベーコン、オレンジジュース、ヨーグルト、りんご1個、コーヒーとし、生野菜のトマトやレタス、胡瓜などは用心して食べなかった。
 
 8:05に出発。目的地のブハラまでは約300kmあり、羊毛工場には5時間近くかかるらしい。道路も相当に傷んでいて振動するので、我慢してほしいと言う。このホテルを出る時、タシケントのホテルでも渡された滞在証明書のような用紙をくれた。
 ホテルを出ると、10人余り乗ることのできるミニバスが多く走っている。わが国のワゴン車より少し大きいくらいで、路線バスである。どのクルマも満員で、手を上げるとどこでも停まってくれるようだ。勿論、常設のバス停もある。そのバス停はどこもいっぱいの人だかりで、飲料水を販売している店も多く並んでいる。まるでわが国のスーパーの前の出店の様子だ。乗降は自由で誰でも160スム。ただ、相当の距離になる場合は、距離に応じた料金が必要になるらしい。「乗車チケットもないし、どこから乗ったかの証明用紙もないのに、一体どうしてその乗客の料金を判断するのか」と質問すると、バスは10人余りで、おまけに毎日乗ってくる人は大体馴染みの人が乗るので、問題はないという。
 ホテルを出て10〜15分もすると、道路の中央分離帯がなくなり、のどかな田園風景に一変する。広い土地とのどかな放牧風景、絹のための桑畑などが広がる。現地ガイドは約5時間あるので、UZ国のドライブイン・畑の栽培・灌漑用水・放牧・一般家屋などの様子などを順に説明する。ロバに乗って荷物を運ぶ人にも時々すれ違う。民家はそんなに立派とはいえないが、学校はどれもお金をかけている。
 約20分すると突然、検問所が出てきた。3車線以上ある道路が1車線にされてしまう。特に車両を停めて検査するほどではないが、同じ国内・同じ州内で、このような所が20分程度の間隔で設けられている。
 私達は2時間半ほどして、いわゆるドライブインで休憩。店舗内にも椅子などはあるが、外がやたらと広く、そこでお茶タイム。コーヒーを頼むとネッスルのインスタントコーヒーで、場所も写真のように靴を脱いで座布団に。UZ国は、タシケントでもサマルカンドでもこのような席が割合にある。
 郊外へ出ても市内と同様に緑は多く、車道・歩道と街路樹などは、少しの幅の水路に守られている。また、時々10m以上もあるような歩道・側道では、所々に売店が設けられている。
 11時少し前にナボイ州という地域に入る。途端に道路のガタガタはなくなり、交通標識も整備され、中央分離帯も出てきた。この町には有名な貴金属工場があるとかで、豊かなのであろう。しかし、その内に農地の緑は次第になくなり、砂漠化したような土肌が見える。そして、驚くべきことに、遥かかなたに「地平線」が見える。水平線は誰でも見ているが、なかなか地平線は見られない。また、検問所である。大抵の車は素通りだが、いい気はしない。経済効率も悪いし、何よりも権力を常に認識させ、自由な国づくりへ逆行するものではないだろうか。
 暫らくすると、また緑が出てくる。先ほどの土地は土質が悪く、灌漑の効果がないらしい。所々できれいに均されているのは、ポテトかぼちゃなどをこれから植えるためという。
 
 交通 標識や案内看板がないために、羊毛工場の場所が分からず少し迷ったが、12:44に無事にカラクル羊毛工場に到着。ここは1926年からの操業で、ソ連時代からの工場としては唯一残ったものだ。今ではアメリカ・韓国・ヨーロッパなどへ主として輸出しているとのこと。また、羊が大半で、コート・帽子・長靴のようなものを主に作り、羊の皮1枚が4ドル程度で取引されている。
 工場の大半は操業しておらず、ガランとしていたが、警備員はそれでも配置されている。市場経済化への道はまだまだで、欧米などの商社から自国の製品を安くたたかれても、「販路が見つかった」と喜んでいる感じだ。
 約1時間程度の視察の後、昼食をとり、14:40にブハラのパレスホテルに到着。荷物などを置いて、30分程度で世界遺産現場の調査に出発しなければならないので、とりあえず、デジカメの電池を充電しておこうと思ってコンセントに差し込んだ。しかし、部屋を出る時、メーンスイッチを切るとコンセントの電源も落ちる。これはいけないと思い、フットライトだけにして、他の電気を消して充電した。 (しかし、夜ホテルに帰ってきたら、ベッドメークに来たメイドがメインのスイッチを消してしまっていたので、充電できていなかった)
 
 15:15にホテルを出発し、アルク城へ向かう。20分ほどで到着し、記念撮影の後、アヴド先生から修復などの説明を受ける。中はみやげ物売り場のオンパレード。多くの人が感心しながらレンガで造られた巨大な城と城壁を見ている。古いコーランが何冊も展示されているが、保存状態は必ずしも良くない。暫らくすると、警備員と警察官が何事か言って、大きな錠前の付いた裏側の扉を開けた。そこは一般には公開しておらず、上客と見れば「チップ」をとってサービスをするようである。「勿論、彼らの懐に入りますよ」とガイドの話。市内が一望でき、ロシア革命時の爆弾の投下跡や、かつての栄華を偲ばせる破壊されたものがいたるところに散見された。
 約1時間の見学の後、近くのカラーン・ミナレット(カラーンとは大きいの意)へ向かう。16:26に到着。先ほどの城とは異なって、神秘的・厳かという佇まいである。このモスクの中には流石に売店はない(写真・左下)。広い敷地を通って中へ入ると、右側からお祈りの声が朗々と聞こえてくる。この場所はソ連時代には倉庫に使われていたが、独立後に再び礼拝所になり、最大で1万人が礼拝できると言う。ここは内部の修復程度を見ていると大丈夫の感じである。
 17:00に退出し、近くの絹織物の製作所(右上写真)へ案内してもらった。ここでは女性が1本1本絹糸を絡めながら、熱心に作業している。60cm×1mの絹の絨毯を作るのに、女性2人で2ヶ月はかかるらしい。高くつくのは当たり前である。
 私達は18:00からの民族舞踊を楽しみながらの夕食会場へ。ここでは民族舞踊だけではなく、周囲にある服飾関係の店舗のファッションショーも兼ねて、170cmくらいのスレンダーな女性が10人余り、次から次と登場する。踊りは実に静かで、3〜5分程度で一つが終わる。どれもほとんどが同じ踊りで、スペインで見たフラメンコのような楽しみはない。食事はウズベク料理。ここのパンもサマルカンドと同様に美味しかったが、私自身はこの日、余り食欲がなかった。しかし、昨日の今頃の時間帯は大変な雨だっただけに、一日違いで大助かりである。
 ホテルに帰ると丁度20時。汗を流そうと、バスタブに湯を張ろうとするがなかなか溜まらない。30分以上頑張っても10cmにもならないので諦めて、サウナへ。ところが、23時までOKだと言われ、ぜひ利用したいと言っていたのに、通路が閉じられている。ドアを叩くと後方から「クロウズド」と言う。「私は23時までのサウナ利用を約束した」と片言の英語で言うと、「少し待て」と言ってフロントと相談。すると、「こちらへ来てくれ」とロビーの奥にあるラウンジの後ろのドアを開け、案内。6,000スムを支払うとバスタオルを1枚貸してくれた。更衣室もなく、「まあいいや」と廊下で着替えることに。しかし、サウナの室温は90℃を超えていて、いつもどおりに汗はすぐに出る。
 サウナの後、アヴド先生のお誘いで、ラウンジでビール・ワインを飲みながら、懇談。先生は熱心に遺跡の保存と修復にかける仕事の大切さと、ヒバなどでの遺跡保存計画=ゴールデンリングを説明される。そして、「機会があれば日本の奈良・京都などを訪ね、歴史的な建造物などを見たい」と話された。私も「今回のUZ国への訪問で、現役の教授でもあるアヴド先生の案内でシルクロードを回れることに恐縮している。先生の温厚・誠実なお人柄に敬服する」と謝辞を延べ、「機会があればぜひ一度、日本へお越しを」と要請した。先生は、ソ連から独立後の暮らし、意識の変化、環境問題などにも触れられた。私は英語を片言しか話せないので、「a little」と言うと、先生はゆっくりと話され、比較的分かりやすかった。22:30過ぎに解散。
 


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