2010.04.15.〜 04.22.
中村哲之助議員の訪問記
※各写真をクリックしていただくと拡大版をご覧頂けます。
 
教育と都市計画を学ぶ(4月16日) ・・・  ・
私達はすぐにバスに乗車し、5分程で次の視察先の建築協会へ向う。 10:43建築協会に到着すると、すでに私達への説明のためプロジェクターなどが用意されていた。説明していただくスタンスラブ・デンコ氏に対して私達はここでも持参のお土産を渡す。
 同氏は「What is this? 」と言われるので、私は「This is a cloth wrapper. Universal cloth bag!」 と言うと、「Oh, Oh」と感心される。同氏は「建築系大学を卒業後、KRK市の建築部に勤務し、その後アメリカ・テネシー州の大学で建築学を教えていた。POL国へ帰ってからはKRKの建築家になり、この協会で10年になる。」と自己紹介をされた。
 POL国は2003年を境にして、建築行政が大転換した。特に空間計画の改革によってこれまで有効だった計画も全て無効になったこと。また何でも国営・公営であったが、私立の計画が認められるようになったこと。また手続きなども住民の意見が反映されるようになったため、行政計画に対する異議申し立てはもちろん、民間の計画したものに対してもNOが言えるようになったことなどを具体的に説明された。同氏はさらに、

  1. 画空間計画・経済的効率などの研究
  2. 土地利用計
が特にこの国にとって重要なテーマになっているが、これまでと異なって、コンセンサスを得るために相当な時間を必要とするので、建築家は大変な苦労をしていると語った。
 現在、KRK市では70%が都市計画の対象から外れ、計画のあるのは市街地部分だけであるため、一定区域を開発しようとすると、開発者は「建築物条件の決定」という書類を作成し、KRK市へ提出する。
 それを受け、行政はその計画がKRK市にとって好ましいものであると認めると、市長と契約し開発することができる。近隣に高層建築物がなければ、絶対と言っていいほど高層建築物は建てられないし、その逆もあり得るようである。
 同氏は具体的な事例を示された。開発者(A)はKRK郊外に住宅用地を建てようと計画 → その場所は珍しい蝶の生息地であったので、POL国アカデミーと環境保護省が現地調査し検討 → 保存すべき特別の種であるが、さらに近隣の森林に同種の蝶が相当数見られるので、絶滅の恐れはなく開発はOKとする → 建物は高さ・外観などに一定の規制、公園などの公共スペースの確保が必要 → 道路などを含め開発を50ha、Aが30haを提供し公園、街灯、劇場などを設けるなどで合意し、実現に向けて今、大きく動いているとのこと。約5年後には完成見込みとのこと。
 私たちに示された計画概要では、果樹園や緑地が大きく残され、素晴らしい環境になると思われる。この開発には約7,000万ズロチ(24〜25億円)必要とのこと。
 さらに同氏は「この協会に開発計画を立てている人達の約1/3が訪れる。行政側も専門的な人達の集まっている協会に相談するように指導している」と語った。日本でいう公益社団法人である。POL国ではようやく民主的な考え方・行動とはどういうものであるのかを理解し始め、自然保護団体などの活動(デモなど)も活発になってきている。このような中、議員団からは
  1. 空間発達、空間配置の考え方
  2. 開発にかかる必要な財源と自治体の関与は?
  3. 開発希望者と市長との契約のあり方
などの質問が出され、一つひとつ丁寧に答えていただいた。また同氏からは「KRKの今の姿をよく見ておいてほしい。旧市街地のヴァヴェル城をはじめ、なぜこれほど計画を慎重にチェックするのか、景観にマッチした建築を求めるのかが分かってもらえる」と説明。
 ちょうど昼12時に終了した。外は割合雨が強く降り、傘がなければ歩けない。私達はバスが近くに来るまで5分余り待ち、乗車後10数分でレストラン・ミエスチャンスカへ着いた。昼食後はKRK市の歴史遺産を視察することになっている。

簡単な食事を済ませた私達は徒歩でヴァヴェル城へ向かった。なだらかな坂を登って城へ入る(4日後に国葬が行われた際、棺を担いで多くの人達がこの坂道を静かに登る様子がTVでも伝えられた)。鐘楼や大聖堂の立姿は調和がとれて見事だ。宮殿の中はかつての王宮であったことを示す数々の装飾品や絵画が置かれ、部屋のつくりなども見事である。室内での撮影ができなかったので、これらを写真でお伝えすることはできないが、よく今日まで見事に保存できているものだと感心する。

バベルの塔やノアの箱舟など旧約聖書の世界が次々と描かれ、ボッティチェリの絵などが壁面を飾っている。そしてベランダから見える多くの住宅などを案内者が説明し、「4つ目の建物にあの有名なシンドラーが住んでいた」と指を差して紹介。慌ててカメラを向けた。約1時間でここを出、大統領ら多数の首脳を追悼する場所へと移る。
 ここには数日前から大統領夫妻らの死を悼む人達が次々と訪れ、花などを置いている。そして正面にはカチンの森惨劇70年の式典に向かう中での事故であったことを示す十字架が立てられ「KATYN」と記されている。その両脇に直立不動の国軍兵士が2人いる。私達はここで死去された方々のご冥福をお祈りした。私達が祈りを終えて立ち上がると国軍兵士の2人が交代にやってきた。それを見た後、私達は聖マリア教会の大聖堂に入場した。本当にすごい大聖堂である。美しいステンドグラスは大きさも世界最大級(写真)という。この大聖堂はフラッシュさえ使わなければ写真撮影OKとのことで早速5ズロチを出すと、係員が左胸の上に「VIDEO・FOTO」というオレンジ色のワッペンを張付けてくれた。この時が15:50過ぎであまり人影はなかった。祭壇には生前の大統領夫妻の笑顔の写真が静かに置かれている。この聖マリア教会の設立からの歴史などをガイドのMALさんが内緒話のように小さな声で説明してくれる。
 外へ出て塔を見上げていると「間もなくラッパの音がしますよ。これは昔、POL国を攻めてきたモンゴル軍の姿を見つけた衛兵が非常事態を知らせるためにラッパを吹いたものの、敵兵の矢が喉を貫き絶命してしまった。その衛兵の勇気を今に伝えているもので、1時間置きにラッパが吹かれ、当時と同じようにその曲も途中で終わる。東西南北4ヶ所の窓を開けてラッパを吹くのが下から見えるので、どうぞ」と言う。確かに写真のように短い時間であったが、ラッパが見えた。この奏者は地元の消防署の7人の人達が交代で塔の上まで上って吹くという。エレベーターもない塔に登っていくのは大変だと思うが、このような歴史をいつまでも引き継いでほしいものである。日本であればきっと「事業仕分け」で真先に×となってしまう気がする。

建築協会のスタンスラブ・デンコ氏が「ヴァヴェル城と広場、そしてこれを取り巻く数々の歴史的建築物を見ていただければ、POL国の現状と国民の歴史的遺産への思いを理解してもらえるだろう」という説明がよく理解できた。一般的な観光ツアーであれば、建並ぶ店に入ったり、周辺をもっと観光したりするのだが、そうもいかず、私達は徒歩でホテルへ向かった。17:50にホテルに着き、18:45にロビー集合を確認して全員が解散。私は部屋へ戻るとポットで湯を沸かしバスタブに湯を張った。しかし、この時間帯に風呂に入ると湯冷めするのではないかと思い、足を洗っただけで、靴下を履き替えて洗面の後、今日の出来事を少しメモ。その日の出来事はできるだけその日の内にメモをしておかないと記憶が曖昧になってしまうからである。温かい濃い目の緑茶を飲んで少し休憩し、ロビーへ。半分くらいの議員が集まっている。18:45全員でレストランへ向かう。
 20:15に食事を終えた私達は思い思いに中央市場広場へ向かった。ここではまだ昼間からの突貫工事が続いているが、まるで何かの前夜祭のような感じの歌声が流れている。もちろん、国葬に合わせて行われている追悼行事の一つであるが、暗くて何人いるのか分からない。昼に祈りを捧げた場所には今も多くの人達が、日本でいう灯明を置いている。ここでもう一度お参りをし、周辺を散歩しながらホテルに戻ると21:10だった。
 部屋へ入って風呂に浸かりながら「今日はすごく疲れたな」と感じる。昨夜十分に眠れなかったのと、まだ体が日本時間のままでPOL国時間になっていないこと、この時刻自体が日本では朝方の4時過ぎであることなどが原因だろう。午後に行ったヴァヴェル城をナチスドイツ軍幹部がずっと「本部」として使用していたことや、中世の国王がここで各地の有力者達を集めて参議を開いたこと、歴史に深い傷跡を残したAUSが近くにあることなどを考えると、POL国の波乱万丈の歴史を教えられる。11:30就寝。