2010.04.15.〜 04.22.
中村哲之助議員の訪問記
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戦慄のアウシュビッツ(4月17日・午前) ・・・ 
 ナチスドイツはこの強制収容所の存在を世界に隠さなかった。世界には「社会を不安にする者を収容しているのだ。そしてこの者達を労働させるのであって、虐待しているのではない」と主張した。建物の中に当時の法務大臣の言葉が残されている。それは「ドイツの国民を守るため、我々は彼らを排除するのだ」ということである。「虐待するのではない。第一次世界大戦後の不安定な社会はユダヤ人らによってもたらされた。そのため、彼らに奪われたものを彼らから取り返すのだ」というのが理由である。従って、終戦後、虐殺してきた者達を問詰めても彼らは謝らなかった。「私達は何一つ悪いことはしていない。国の命に従ったのだ。もし、それが間違いなら、私達も被害者だ」と語ったようである。中谷氏は今のパレスチナを取巻く状況とどこか似ているのではないかと語った。
 当時、ヨーロッパには800〜1,000万人のユダヤ人がいたが、戦争中にその内の600万人を超える人達が殺害された。そして、そのような状況を打開できず、じっと見ているだけの人々もまた数多くいた。「特定の者の暴走に歯止めをかけることができないという問題こそ、歴史は問うているのではないか」と同氏は言う。
 囚人の中には外部と連絡を取ろうとする者もいたし、やり方に反対する人達もいたが、その人達はすべて「死の壁」と言われる所で銃殺刑に処せられた。壁に向かわせ、つまり後方から首に直接銃を着け、一発の弾丸で処刑したとのこと。私達が映画などでこのような場面を何回か見たことはあるが、10m以上も離れ数人で一斉に引き金を引くということではなかったようである。また、公開の一斉絞首刑もたびたび行われ、その大型処刑台は今もなお残されている。
 私達は死の壁と言われる場所へ行き、用意してきた花束を供え、全員で犠牲者の冥福を祈った。AUSを後にする時、同氏が語った「ここから出る方法はただ一つ。焼却炉の煙突から煙になって出ていくのだ」という言葉はズッシリとこたえた。
 さらに、「韓国人は日本人の5倍以上がここを訪れている。日本の旅行会社は、海外旅行、とりわけヨーロッパ旅行の一こまにAUSを中々入れてくれない。テーマが重過ぎるからだろうか。非常に残念だ」という言葉は、今日の日本社会の風潮と国民性を考えさせられる。そして中谷は、「私は学者でも研究者でもない。平和に貢献したいのだ。政治家である皆さんに託したい」と語った。
 AUSに次いで私達は3km離れたところにあるBIR収容所を訪れた。ここはAUS2号とも呼ばれる。収容者は時に10万人近くにもなり、粗末な木造のバラックが次々と建てられ、300棟以上もあった。そして牛馬の小屋と間違うほどの劣悪な施設(写真=蚕棚にそっくり)で生活を余儀なくされ、時には−20℃くらいにもなるPOL国では数多くの囚人が凍死していった。現在ここに残っている施設はわずかであるが後世へ伝えていくため、入場料、物品、書籍販売などによる収入に加え、EUからの助成金も受けて保存・修復作業を続けている。これは一国の歴史ではなく世界の歴史だと認めている訳である。暖炉の煙突が数多く残っているが、残された収容棟の解体・再建などには1億2,000万ユーロが必要だという。
 このBIRも有刺鉄線で囲まれ、看視所の数の多さに驚くとともに、SS隊員らが空爆の際に身を隠す防空壕がいたるところにあるのが目に入る。しかし、彼らが空爆で防空壕に逃げ込むことは一度もなかったようである。連合国軍はここが強制収容所であることは当然知っていたし、何万人もの人達が収容されていることも把握していた。しかし誰一人としてここで無差別に毎日大量殺戮が行われ、焼却していたとは思わなかったとのこと。当時、通常の人達は一人として1年で50万人も殺害し、焼却していることを想像できなかったようだ。従って、ユダヤ人達はなぜ連合軍は空爆などによって私達を助けてくれなかったのかと大変な不信感を持ったようだ。
 ガイドのMALさんは「今日は各地で正午から追悼行事が行われるため、一定時間、バスなどがストップされるかもしれないので早めに移動したい」と言う。私達は「死の門」から伸びている線路で記念撮影(上の写真)し、バスに乗った。かつて多くの人々がここへ運ばれ、虐殺されたのである。私達の立っている所が正にその場所である(下はAUS博物館発行の「その歴史と今」から) 。もう11:35になっている。ここから私達はPOL国の歴史で大きな役割を果たしてきた、ヴィエリチカ(以下、WIE)の地下岩塩坑を訪れることになっている。